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インドシナ難民とは ホームへもどる

 1975年、インドシナ三国(ベトナムラオスカンボジア)では相次いで社会主義体制に移行しましたが、新しい体制の下で迫害を受けるおそれのある人々や新体制になじめない人々がボートで海上へ逃れたり(ボート・ピープル)、陸路隣国へ逃れました(ランド・ピープル)。

 インドシナ難民  これらの人々を総称してインドシナ難民といい、その総数は 約144万人に達します。その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、また、ボート・ピープルとして、アメリカ・オーストラリア・カナダ・日本などへ定住しました。

 1979年からは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR:United Nations High Commissioner for Refugees)とベトナム政府との間で締結された「合法出国に関する 了解覚書」に基づき、家族再会や人道的なケースの場合に限りベトナムからの合法出国を認めるという合法出国計画(ODP:Orderly Departure Program)が開始されました。ODPによりベトナムを出た人は約60万人に達しています。日本でも1980年からODPによる離散家族の呼寄せが認められることとなりました。

 インドシナ難民の流出は1979年にピークを迎えましたが、その後インドシナ三国 の国内状況の安定化により流出は減少しました。インドシナ難民の大部分は第三国へ定住し、一部の難民の本国への帰還も進み、国際社会からみたインドシナ難民問題は一応の終息を迎えています。 (注:数字はUNHCRの資料を参考としました。)

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インドシナ難民 豆知識

ベトナム難民 ベトナム難民

 ベトナムでは、1954年の南北分断以降、南ベトナムで共産主義勢力による反政府ゲリラ活動が活発化し、1964年頃からアメリカが本格的に軍事介入し、ベトナム戦争が拡大していきました。1975年4月のサイゴン陥落でベトナム戦争は終結しましたが、その前後から南ベトナム政府や軍の関係者、資産家など新しい社会主義体制の下で迫害を受ける恐れのある人々や新体制に不安や不信をもつ人々が大量に国外に流出を始めました。サイゴン陥落以前に国外に脱出できなかった人々は、いわゆるボート・ピープルとして漁船等の小型船に乗って直接周辺諸国へ脱出しました。
ラオス難民

ラオス難民 ラオスでは、1975年4月以降のカンボジア、ベトナム情勢の急変が大きな影響を及ぼし、同年8月にはラオス愛国戦線が全土を掌握、12月には王政を廃止しラオス人民民主共和国が樹立され、社会主義への道を歩むこととなりました。
 この政変の結果、旧政権の関係者や新しい社会体制を嫌う人々が難民となって国境のメコン川を泳いだり小舟で渡りタイ領内に流出しました。
カンボジア難民

カンボジア難民 カンボジアでは、1970年に親米派のロン・ノル首相が実権を握るクメール共和国が成立しましたが、シハヌーク国家元首と左翼勢力による民族連合王国政府との間に内戦が続けられ、1975年4月首都プノンペンが陥落し、社会主義体制となりました。
 ポル・ポトを中心とする新政権は、王政を廃止し民主カンボジアを樹立し、旧政権関係者の大量粛清、生産手段の国有化、都市住民の農村への強制移住など急激な改革を進めたために、難民が陸路タイ領域内に流出しました。
 1978年12月、ベトナムの支援を受けた反政府勢力の大攻撃が開始され、翌年1月にはプノンペンが陥落し、ヘン・サムリンが実権を握るカンボジア人民共和国の樹立が宣言されました。民主カンボジア政府側はタイ国境や山岳地帯を根拠地としてゲリラ戦を展開したため、再び大量のカンボジア難民がタイ領内に流出しました。
ボート・ピープル

ボートピープル
(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 サイゴンが陥落してまだ間もない1975年5月12日、米国船グリーン・ハーバー号に救助されたヴィエトナム人9人が千葉港に上陸した。これが我が国へヴィエトナム難民(いわゆるボート・ピープル)が到着し上陸した最初の事例である。さらに、同月中に2隻の外国籍船に救助されたヴィエトナム人ボート・ピープル9人が横浜港と那覇港に上陸し、同年中には合計9隻126人に達した。以来1995年12月末までに我が国へは13,768人が到着している。

 我が国へのボート・ピープルの到着状況を年別にみると、1975年が9隻126人、1976年が11隻247人であったが、 1977年には25隻833人と急増し、1979年から82年の4年間は1980年の32隻1,278人をピークに毎年1,000人台を記録した。その後は、ヴィエトナムからのボート・ピープルの流出自体が減少したことに伴い我が国に到着するボート・ピープルも漸減したが、1987年を底に再び増加し、1989年にはいわゆる偽装難民を除いても10隻694人が到着して第2のピークを示した。

 しかし、1989年9月までに我が国を含めボート・ピープルの第一次庇護国が相次いでスクリーニング制度を導入したため、ボート・ピープルの流出は大きく減少し、1992年に我が国に到着したものは1隻17人となった。
 1993年には19隻638人とまたも急増したが、翌1994年3月4日の閣議了解により同日以後に到着するボート・ピープルに対しては一時庇護のための審査を行うことなく原則として不法入国者として取り扱うことになったことにより、同年は1隻21人を数えるにとどまった。

 なお、1994年3月4日の閣議了解以後に到着し、不法入国者として退去強制手続きを執られたボート・ピープルは1994年が5隻88人、1995年が3隻63人であり、ボート・ピープルの我が国への流入もほぼ終息したものと思われる。
海外の難民キャンプ

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 1975年から流出の始まったヴィエトナム人ボート・ピープルの大半は、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、香港などの東南アジア諸国に到着した。また、ラオス、カンボディアから逃れたランド・ピープルは、隣国のタイへ流出した。これらの諸国では、UNHCRの協力の下で難民キャンプを設置しインドシナ難民の一時庇護を行ったが、経済的社会的負担が増大し、地域の安定にも関わる問題となった。
ODP(Orderly Departure Program:合法出国計画)

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 ODPとは、1979年5月30日にUNHCRとヴィエトナム政府との間で取り決められた「合法出国に関する了解覚書」に基づき、家族再会及び他の人道的ケースの場合に限りヴィエトナムからの合法出国を認めようとするものである。

 この了解覚書は、1979年前半におけるヴィエトナム難民ボート・ピープルの爆発的な増加を背景として、ボート・ピープルの海難事故や海賊による被害防止という人道上及び一次庇護国の負担の軽減の観点から、UNHCRが難民の流出抑制のための方策として合法出国につきヴィエトナム政府と協議を行った結果締結されたもので、UNHCRの援助の下に離散家族の再会のための合法出国が開始された。
インドシナ難民国際会議の開催

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 ヴィエトナムからのボート・ピープルの流出は1979年にピークを迎え、その後減少を続けていたが、1987年から再び増加傾向に転じ、1989年には約7万人を超える状況となった。しかも、このように急増したボート・ピープルの流出の動機は、貧困による生活苦から逃れ、より豊かな生活を求める出稼ぎを目的とするものが多数を占め、また、ボート・ピープルの出身地も従来の南部(旧南ヴィエトナム)からこの時期には北部(旧北ヴィエトナム)が大半を占めるようになり、その難民性に疑問を生じるケースが少なくなかった。

 このような状況の変化を踏まえ、一時滞在難民の増加に苦しむ東南アジア諸国は、ボート・ピープルの流出の抑制等を協議するべく国際会議の開催を提唱し、ジュネーブにおいて国連の主催により、国連関係機関や77か国の政府代表が参加して、インドシナ難民国際会議が開催された。1979年に開催されたインドシナ難民問題国際会議から10年ぶりに開かれた本会議では、ヴィエトナム及びラオス難民問題について包括的解決を図るべく、包括的行動計画(CPA:Comprehensive Plan of Action)を採択して終了した。
CPA(Comprehensive Plan of Action:包括的行動計画)

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 包括的行動計画(CPA)の骨子は次のとおりである。(1)ヴィエトナムは、ボート・ピープルの流出抑制のための実効的措置を採るとともに、合法出国計画(ODP)等の促進を図る。(2)新たに流入するボート・ピープルに対する難民資格の認定作業(スクリーニング)を実施し、不認定となった者については第三国定住は認めず、本国帰還を奨励する。また、ヴィエトナムへの帰還者に対しUNHCRを通じ定住援助を実施する。(3)スクリーニング実施以前よりASEAN等の難民キャンプに滞留する難民及びスクリーニングの結果難民と認定された者については、引き続き定住受入れを実施する。(4)ラオス難民については、現在実施中の難民認定作業計画及び自主帰還計画を促進する。
インドシナ難民国際会議第5回運営委員会

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 CPAの採択後、東南アジア諸国へのボート・ピープルの流出は、1991年には22,429人を数えていたが、1992年に55人、1993年に777人と大きく減少した。また、1993年に流出したボート・ピープルの大半は、単なる経済的動機により本国から出国したもので、難民性はほとんどないものと見られるにいたった。一方、スクリーニングの結果、非難民とされた者の本国への自主帰還や難民性を認められた者の第三国定住は順調に進められたが、自主帰還を望まない者や受入先国のない長期滞留難民の問題が残された。そのような状況下でジュネーブにおいてインドシナ難民国際会議第5回運営委員会が開催され、次のような内容を骨子とする声明を採択した。(1)CPA下の活動は1995年末までに終了させることを目標とする。(2)1994年2月14日以降に到着するヴィエトナム人については、CPAに基づくスクリーニング手続きを適用せず、国内法及び国際的に受け入れられた慣行に従って取り扱う。(3)定住先の決まらない滞留難民の問題の解決を図るため、1994年の早期に技術的会合を開催する。(4)自主帰還に加え、秩序ある帰還を導入することにより、1995年末を目途に全ての非難民の帰還を促進する。

 我が国でも、上記の国際合意を受けて、1994年3月4日付け閣議了解により、1989年9月から実施してきたボート・ピープルに対するスクリーニングを廃止することを決定した。以後は、我が国に到着するヴィエトナム人ボート・ピープルは、一般外国人と同様に我が国の国内法令及び国際合意に基づいて取り扱うこと、すなわち、ボート・ピープルは有効な旅券を所持していないのが通常であるので、そのような場合には不法入国者として扱い、本人から難民である旨の申請があった場合に難民認定手続を開始することとなった。
インドシナ難民国際会議第7回運営委員会

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 第6回運営委員会において非難民帰還の目標が確認されたものの、米国会議におけるヴィエトナム難民受入に関する法案審議の影響もあり帰還の進捗は思わしくなく、1995年末現在で東南アジア諸国には約37,000人のヴィエトナム人非難民が滞留していた。ジュネーブにおいてインドシナ難民国際会議第7回運営委員会が開催され次のような内容を骨子とする声明を採択した。(1)ヴィエトナム人非難民は自主帰還又は秩序ある帰還によりヴィエトナムに帰還する以外選択の途はない。(2)CPAは1996年6月30日で公式に終了し、これ以後UNHCRはASEANの一時庇護国における支援を行わない(香港を除く)。(3)UNHCRは帰還後のモニタリング、再定着支援を必要な限り継続する。
民間の一時滞在施設

 民間団体は、最初のボート・ピープルの上陸直後から日本各地の団体の施設を難民に住居として提供したり、既存の施設を借りて受入れ施設の運営を行ったりしましたが、その運営は容易なものではありませんでした。施設のあった地元では、第三国へ定住できずに長期滞留する難民たちが仕事をしたり、子どたちが学校に通学しました。また、センターに入らずに施設から直接日本社会に定住する人々もいました。1979年以降、ボート・ピープルの日本への上陸はあとをたたず、民間の一時滞在施設に滞留する者も1981年には2,000人近くとなって、収容能力は限界に達しました。
定住促進センター

 日本に定住するインドシナ難民の約半数、ラオス・カンボジア難民のほとんどの人が、姫路と大和の2つの定住促進センターの出身です。姫路センターは、1979年12月最初の日本定住希望者のための施設として、宗教団体の運営する一時滞在施設に隣接して姫路市郊外の敷地内に開設しました。当初は、ベトナムとラオスの二カ国の人が入所しましたが、1981年からは主にベトナム人を入所させるようになりました。一時滞在施設の運営を経験している神父(名誉所長)やシスター、ベトナム人通訳がスタッフとして加わったほか、隣接する病院の医療面での協力等、団体の諸活動は、センターの運営には大きな支えとなりました。(1996年閉所)

 大和センターは、1980年2月住宅地に隣接した大和市内の「ファチマの聖母少年の町」施設跡地に開設しました。当初からベトナム、ラオス、カンボジアの三カ国の難民が入所しました。隣接する小学校や自治会との交流が活発に行われ、地元にはセンターを支援するボランティア団体ができ、その活動の輪はしだいに神奈川県内の地域に拡がっていきました。(1998年閉所)
難民条約等への加入とインドシナ難民の取扱い

(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)

 難民条約は、難民の定義について相当に厳格な要件を定めているが、インドシナ難民がこれらの要件を充足する者であるか否かは、個別に審査を行わなければ判断することは困難である。しかし、昭和50年12月9日の国連総会決議によって、インドシナ三国から脱出してくる人を包括的に難民として保護する権限を与えられたUNHCRは、これらの人々をインドシナ難民として自らの保護の下におくとともに、我が国にもインドシナ難民として受入れ保護するよう要請してきたため、我が国はこの要請に協力する立場で、個々の難民について難民性の有無を個別に審査することなく、インドシナ難民をそのまま難民として受け入れることとしたものである。
 したがって、難民条約等への加入と難民認定制度の創設にあたり、既に受け入れたインドシナ難民についても条約等にいう難民性の有無の審査を行うものとすると、インドシナ難民に無用の不安と混乱を生じかねないため、インドシナ難民の難民性を再び問うことなく、入国後の処遇に関して難民条約上の難民とインドシナ難民との間に不合理な差が生じないように、政府は昭和56年4月22日、インドシナ難民対策連絡調整会議を開き次のとおり決定した。
(1)インドシナ難民に係る現行の政策を原則として継続する。(2)我が国に定住を希望するインドシナ難民に対しては、従来の閣議了解に基づく方針により、引続き定住の促進に努める。(3)我が国に一時庇護を求めるインドシナ難民に対しては、従来の閣議了解に基づく方針により、国際連合難民高等弁務官が現行の援護体制を維持する限り、その上陸と一時滞在を認める。(4)我が国への定住を既に許可され、又は今後許可されるインドシナ難民については、難民条約にいう難民として認定されない者に対しても、可能な限り難民条約にいう難民に準じて処遇するよう配慮する。
大村難民一時レセプションセンター

 日本へ上陸したボート・ピープルの一時庇護のため、1982年2月長崎県大村市に難民一時レセプションセンター(大村センター)が開設しました。日本に到着したボート・ピープルは、全員まず大村センターに入所し、病気の治療等や定住希望国の確認のため面接調査を受けました。そして、米国、カナダなど第三国定住を希望する者は民間の一時滞在施設又は国際救援センターへ、日本定住希望者は姫路センター又は国際救援センターへ移送されました。大村センターから直接出国した者も218名いました。1989年以降日本に到着したボート・ピープルに対してスクリーニング制度を導入することになったため、大村センターでは仮上陸の許可を受けた者を入所させました。(1995年閉所)
国際救援センター

 国際救援センターは、1983年4月ボート・ピープルの流入増と滞留の長期化に対処するため開設され、日本定住を希望しない者や第三国への出国が決定した者と日本定住が決定した者が入所しました。
 インドシナ難民と条約難民等の日本定住促進のための事業を行っていました。 (2006年閉所)
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