2019.3.1
「ワークショップ 難民」(2003年5月28日)
難民事業本部関西支部では、シミュレーションやランキングなど参加型手法で難民について考える「ワークショップ難民」を、神戸YMCAと共催しました。5〜7月全6回のワークのうち3回はパレスチナ、ブータン、ビルマ難民について、自身が難民であったり、NGOスタッフや青年海外協力隊員として現地で生活した講師から、難民の暮らしや支援活動についてのレクチャーを聴きました。ワークショップでは、難民の定義から日本への受入れ等について活発な議論が繰り広げられました。 ここでは、杉本真樹さん講演の「パレスチナ難民」の概要を紹介します。「パレスチナ難民」 元青年海外協力隊員・杉本真樹さん
私は宗谷岬にある日本最北端の宗谷中学校で4年間勤務していました。兵庫県姫路市出身です。同級生に仲の良いベトナムからの難民がいましたが、その頃は全く難民について意識していませんでした。青年海外協力隊員としてシリアに行き、はじめて難民について考えはじめました。 シリアやパレスチナの位置は皆さんご存知でしょうか。今回の話の「パレスチナ」は、独立国ではなく「自治区」の形で存在しています。同時に存在する国がイスラエル。この2国間の間で、戦いが繰り返されているのです。私の住んでいたシリアは地中海からトルコ、そしてイラクやヨルダンと国境を接しています。今回のイラクへの攻撃でイラクからクルド人が難民となり、特にヨルダンへ流れました。ヨルダン側が用意したキャンプ地までは延々砂漠が続き、中にはそこまで辿り着けず、途中の何もない場所でテントを張らざるをえなくなった人もいます。 私たちは地図を見て、「中東」と呼びますが、中東とはヨーロッパを中心とした考え方、呼び方であり、「中東じゃなくて、アラブっていいなさい」と訂正されることがありました。皆さんはこういうアラブ世界に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。 私たちはアラブのイメージが「戦争」と「石油」、石を投げている子供のイメージと石油のために戦争しているイメージだけになってしまうことを危惧しています。ここにも私たちと同じように家族を愛し、希望を持って生きていることを忘れてしまいがちです。 私が活動していたシリアは、そういったイメージを覆すような落ち着いた国でした。難民となって移動してきたパレスチナ人は、イメージとはちがって普通の平和な暮らしをしています。ただし、その平和な暮らしを手に入れるまで50年かかっているのです。政府の保護や国連機関であるUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の難民支援と、人々の努力の賜物にほかなりません。 自治区内ではテント生活だったり食糧難であったりと、まだまだ困難な暮らしを強いられる方々もおられます。ただ、どこに住んでいても、パレスチナ人は祖国を思いつづけ、平和な暮らしを願いつづけています。シリアの街の様子
シリアの面積は日本の約2分の1。国土の約70%が砂漠です。その中のオアシス都市のひとつが首都ダマスカスです。国内にはシリア(アラブ)人、クルド人、アルメニア人、パレスチナ人が共に暮らしています。また、羊を飼いながら移動生活を送る、遊牧民(ベドウィン)の人々がいます。公務員の給料は月約1万円程度ですが、開発途上国にしては多いかもしれません。宗教は80%のイスラム教徒、20%弱がキリスト教徒です。多くの遺跡や宗教的な歴史的建造物が残っています。世界遺産のパルミラ遺跡はBC1C〜AD3のもので、「西アジアで一番美しい廃墟」と呼ばれることもあります。十字軍遠征の時に築かれた要塞も各所に残ります。 町には日本車が多く走り、ボロボロでも人々にとっては日本製であることが嬉しく、いつも自慢話に付きあわされます。馬やロバが闊歩し、歩行者も道路を平然と横断するなど、交通ルールはあってないようなものです。食事は、田舎に行くと家族一緒に車座になって食事をする風景に出会います。主食はホブスと呼ばれているパンで、肉は羊や鶏が主です。 夏場は50度近くまで気温が上がりますが、乾燥しているため思いのほか過ごしやすいでしょう。 パレスチナ人の総人口は930万人といわれています。その内難民は約400万人。シリアに約40万人、ヨルダンに約170万人住んでいます。自治区の西岸地区は、面積が三重県とほぼ同じであり、約63万人が生活。ガザ地区は日本の種子島と同じくらいの面積で、そこに約90万人の人々が生活しています。どこへ行くにもイスラエルの入植地を通らなければならないため実質とじこめられているような形になっています。難民発生の歴史
ここでいう難民は、48年にイスラエル建国によって住んでいた土地を追われて、周辺地域に逃れた人々の子孫のことです。当時は70万から100万人が難民になりました。 以来55年が経ち、難民の数はその4倍の400万人にまで膨れ上がりました。3世代、孫の代です。子供たちは一度も祖国を見たことがありません。しかしながら「私たちの国はとてもきれいなところだ」「とても素晴らしいところなんだ」と教えてくれます。シリアやヨルダンは国の保護が手厚いのですが、レバノンの難民には住民権が与えられず、能力があっても重要な職にはつけないなど、不当な扱いを受けている人もいます。 国連は安保理決議242号により、パレスチナ難民に対して元の居住地への帰還を認めています。また、帰らない場合でも財産などの保証を認めていますが、残念ながらイスラエルはこれを拒否しています。2003年5月25日米国主導による中東和平ロードマップに基づき、新和平案が閣議で承認されました。イスラエルによる「国家容認」は初めてのことで、歴史的に非常に意義のあることです。しかし、同時に領内への難民帰還は認めないことを宣言しています。駆け引か決断か。歴史はまだまだ揺れ動いています。約束の地
パレスチナの地になぜイスラエルという国ができたのでしょうか。旧約聖書の「創世記」によると、イスラエル人の先祖アブラハムにヤハウェ神が「パレスチナ地方全体をあなたの子孫に与える」と約束したとあり、これをもとに「パレスチナはユダヤ人固有の領土だ」と主張しているのです。 世界各国で暮らしていたユダヤ人ですが、ご存知の通りホロコーストに代表される凄惨な迫害を受け続けました。世界各地に記念館がありますが、本当に目を覆いたくなります。恐ろしい運命にユダヤ人も立たされてきたのだと、胸が痛くなります。 19世紀末からユダヤ人の間で、「シオニズム運動(ユダヤ人の故郷パレスチナに帰ろうという運動)」が起こりました。しかし、そこにはイギリスが統治するパレスチナがありました。当然ユダヤ人とパレスチナ人との間で争いが度重なります。時は第一次世界大戦、イギリスは、(1)メッカの太守フセインに対してイギリスに協力するならアラブを全部アラブ王国として独立させる約束をし(2)ユダヤ人に対してイスラエルという国を作ってやる約束をし(3)フランスに対してはイギリス・フランスでシリア・ヨルダンを分けようと約束するという矛盾する内容の3枚舌外交で、問題を一層混乱させることになってしまいました。 1947年国連によるパレスチナ分割決議案が採択され、1948年イスラエルは独立を宣言しました。この後4回の中東戦争が起き、パレスチナが難民発生しました。パレスチナ難民キャンプで行われた拷問や大虐殺、度重なる自治区強制入植に対して、「インティファーダ」(住民蜂起)が始まりました。住民の手で自分たちの地を取り戻そうとする運動です。1995年には、和平運動を進めていたラビン・イスラエル首相が暗殺された後は政治的にも不安定な時期が続き、2001年にシャロンがイスラエル新首相に就任、第2次インティファーダへと繋がるのです。戦いの傷跡と子どもたちの様子
シリアで生活するパレスチナの子供たちですが、普段はUNRWAの学校で高い水準の教育を受けています。学校は朝昼2部入れ替え制でどのキャンプも生徒で飽和状態ですが、どの子も学校を楽しみにやってきます。 しかし、第2次インティファーダの頃は、デモ行進などにに子供たちも参加することが度々ありました。街中での子供たちの抗議行動を見ると「まだ意味が理解できないだろうに・・・」と思ってしまいます。政府主導のため暴動には発展しませんが、市民によるデモ行動に参加している大人たちの顔は悲壮で、怒りをあらわに行進します。 学校では、自爆テロの問題について子供たちに尋ねると、多くの子供が「できるものならやりたい」と答えます。私としては、子供たちに「人の命を奪うことがあっていいのか?ダメだろう?」と言いたいのと同時に、彼らの暮らしの背景を考えるとジレンマを感じずにはおれませんでした。子供たちは生まれてから間接的とはいえ、戦いの中で育ってきました。戦車で無差別に攻撃してくるイスラエル軍に立ち向かうのは、自爆テロ以外に何があるのか・・・。言葉に詰まります。本当の正義はどこにあるのか、教師として、人間として何をどう教えてあげればよいのかと考えても、答えが出せませんでした。 ユニセフの報告によれば、パレスチナの60万人の子供が心の平静を失い、恐怖と心的ストレスにさらされているといわれています。200の学校が破壊もしくは損傷し、300の学校が武力衝突の現場の近くにあり、3,000人の子供たちが行くところを失ってしまいました。子供たちは戦車や検問の前をとおらなければ学校に行けないのです。 世界は和平に向けて少しずつ動き出したかのように見えます。人々は平和な暮らしを夢見て日々の生活を営み続けています。イスラエル、パレスチナ双方ともに、平和を願い活動する人々がたくさんおられます。日本にもそれを支援する方々が多くおられます。 私は音楽教師としてパレスチナの子供たちと2年間を過ごしましたが、「この子供たちが、死と隣り合わせの道を歩んでほしくない」と切に思いました。私にできることは、音楽を通じて子供たちに少しでも元気を与えること、そしてこのような場を通じて、パレスチナの今を皆さんに「知って」もらうことです。彼らのことに少しでも興味を持ち、世論という形で支援ができたら・・・。きっとパレスチナの人々はそういう形で平和が訪れることを願っていると思います。そのためにも、これからも真剣に生きるパレスチナの人々のことを見守りつづけたいと思います。Q | 「シリアに行くことになったきっかけは何ですか。」 |
A | 「協力隊の赴任地は自分で選べたわけではありませんが、パレスチナという言葉に興味を持ちました。協力隊には高校生の頃から参加したいと思い続けていました。」 |
Q | 「アラビア語はどこで覚えたのですか。」 |
A | 「出発前に3ヵ月間訓練を受けます。あとはサバイバル。現地の子供たちが先生でした。最初の1年間は苦しかったですが、2年目は意思疎通もスムーズになり、活動できるようになりました。」 |
Q | 「シリアにあるパレスチナ難民キャンプは平和を保っていますか。」 |
A | 「UNRWA やシリア政府がしっかりと教育や生活環境をサポートしています。そのおかげで今は平和な暮らしをしています。しかし、不利益を被るのはキャンプの人たちです。」 |
Q | 「どんな音楽を授業に使いましたか。」 |
A | 「初めは音楽という概念から入りました。アラブの音楽はもちろんのこと、西洋の音楽や日本の音楽も使いました。アラブの楽器がオリジナルとなって、世界は音楽でつながっているのだということを話しました。子供たちは学校が大好きです。大変でしたが、私も楽しく授業ができました」 |
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