INFORMATION

2019.3.1

「ワークショップ 難民」(2003年6月11日)

難民事業本部関西支部では、シミュレーションやランキングなど参加型手法で難民について考える「ワークショップ難民」を、神戸YMCAと共催しました。5〜7月全6回のワークのうち3回はパレスチナ、ブータン、ミャンマー難民について、自身が難民であったり、NGOスタッフや青年海外協力隊員として現地で生活した講師から、難民の暮らしや支援活動についてのレクチャーを聴きました。ワークショップでは、難民の定義から日本への受入れ等について活発な議論が繰り広げられました。 ここでは、中尾恵子さん講演の「ビルマ難民」の概要を紹介します。

「ビルマ難民」 中尾恵子さん(日本ビルマ救援センター代表)

日本ビルマ救援センター(以下センター)はミャンマー難民の支援を行っています。支援活動を通じて見てきた難民の人たちの生活の様子を紹介します。 1.国内避難民 ミャンマーの国内にいるまだ国境を越えて来ない人たち(以下、国内避難民)の数はミャンマー全土で60万〜100万人といわれています。強制労働にほぼ毎日徴用されて、自分の田畑を耕すのもままならない人たちが多くいます。国内避難民への支援は国際的なNGOがなかなか手を出せない状態ですので、タイ側の難民キャンプに住んでいる人たちが自分の生活がある程度落ち着いた時点で自助グループを作り、国内避難民の教育や医療の支援をしています。センターではこの難民の自助グループを通じて一部の国内避難民への支援を行っています。 2.ミャンマー・タイ国境の難民キャンプにいる難民 1984年までのミャンマー・タイ国境支配はもともとその地にいたワ、シャン、カレンニー、カレン、モンの少数民族によって行われており、ミャンマー政府やミャンマー軍が近づける地域は限られていました。この少数民族は国境貿易つまりブラックマーケットから税金を取って、自治と抵抗武力や公共設備に使っていました。ミャンマーは経済的に孤立化していたので、日常の必需品はミャンマー・タイ国境からやって来る闇取引に頼っていました。国境地帯は70年代半ばからミャンマー軍とカレン軍の戦闘状態が続いていましたが、84年に初めてミャンマー軍に苦戦を強いられてカレン軍がタイ国境に押しやられ、約1万人の難民がタイ側へ出てきました。84年から94年の10年間にミャンマー軍は毎年乾期に攻撃を仕掛けて新しい地域を配下に納め、最終的に94年の時点で難民は約8万人となりました。95年にカレン軍本部のあるマナプローを陥落し、その他の軍事基地も侵攻していきます。ミャンマー軍は少数民族の支配を広めていくと、96年から軍の支配下に人々を集めて抵抗民族を抹殺するために強制移住計画を開始し、その結果タイ側に多くの難民が出ました。2002年10月の資料によると少なくとも250の少数民族の村が破壊され、100万人がその影響を受けています。また、20万人以上の人々が難民としてタイへ逃れています。 現在、難民キャンプはメーホンソン地区にバンカイ、バンメイスリン、メコンカー、メラマルアンの4つ、タック地方にメラ、ウンピャンマイ、ヌポキャンプの3つ、カンチャナブリ地方にバンドンヤン、ラチャブリ地方にタムヒンがあります。モンのキャンプは再定住地ということでミャンマー側にあります。現在タイ側のキャンプに13万4千人、ミャンマー(モン)側のキャンプに11,725人で、合計約14万5千人が難民として登録されています(2003年2月現在)。難民キャンプには電気がないので、子どもたちは夜が明けるとすぐに起き、仕事をいくつかこなしてから学校に行って、戻ってきてからも明るい内に勉強します。学校では語学を中心にミャンマー語とカレン語と英語、算数を勉強しています。日本のNGOシャンティボランティア協会(S.V.A)がミャンマー・タイ国境のキャンプで図書館活動をしています。午後図書館が開き、学校が終わったあとに子どもたちが集まってきます。日本や海外の優れた本を選んで、それぞれのタイトルや文字に全部ミャンマー語やカレン語の翻訳を貼っています。キャンプの中にはいくつか井戸があり、食事や洗濯用の水をくみ、また沐浴もします。主な収入源は織物を織ってかばんやシャツなどの製品に仕上げて売ることです。キャンプでの娯楽はサッカーや映画館にあるテレビで古いアメリカの映画を観ることくらいです。センターでは保育園やカレンの女性の自助グループが運営している孤児院の支援を行っています。また衣服や食料品等の支援もしています。キャンプによっては山の上にあるため行くのに苦労します。キャンプの立地条件によって必要な服、毛布などが変わってくるということが現地に行って初めてわかります。ミャンマー側からタイ側に逃げてきたニューアライバルと呼ばれる人たちが最初に収容される施設でインタビューをしました。ある家族の妻は、昨年の5月にミャンマー軍がカレンの村を攻撃した時に流れ弾にあたり、身重の身体でキャンプに命がけでたどり着いた後に出産したとのことでした。いまだに頭の弾丸の破片を取る手術が出来ないため、ひどい頭痛に苦しんでいました。 3.非公式の難民キャンプにいる難民 ファン、メーサイ付近に非公式のシャンのキャンプが3ヵ所あり、現在2,300人以上いるといわれています。シャン軍、ワ軍とミャンマー軍の交戦で一時にたくさんの難民が逃れてきました。現在はミャンマー軍による強制労働のため、家族単位でタイ国境を目指してやってきます。3月に訪問した時のインタビューによれば、村人の40%がタイ側の方へ逃れているということです。地雷の被害者もたくさん出ています。パオ、ラフ、アカ等人口的に少ない民族の人たちはキャンプを持つことができません。このような少数民族、キャンプを持たない民族の人たちはUNHCRから難民と認められていないため、国際的な支援が得られず食料品の配給を受けることもできません。タイ人が嫌がる3Kの仕事をしたり、タイの最低賃金よりも低い賃金で仕事しているため生活はかなり苦しいです。子どもたちは学校へ行く余裕がないため、自助グループの人たちが読み書きを教えていますが、十分ではありません。センターはこの非公式のキャンプにいる人たちや難民キャンプを持たない少数民族の人たちに対する教育と衣服の支援も行っています。 4.移住労働者となりミャンマーを出てタイにいる経済難民 ミャンマー側のカレンや他の民族の人たちが生活ができないため職を求めてタイ側に移ってきますが、彼らは紛争地帯から逃げてきた難民ではなく、経済的にやっていけなくなって自分たちの意志で渡ってきたため、特別な支援を受けることはできません。 5.日本におけるセンターの活動 日本には約1万人位のミャンマーの人が生活しています。その中には、母国の民主化活動をしたことで逮捕される恐れがあるため、庇護を求めて日本に来た人たちがいます。彼らはビルマ民主同盟や国民民主連盟、解放地域日本支部などに所属し活動をしています。センターでは日本や海外にいる活動家たちと共同でミャンマーの民主化を願って、デモやアピール、写真展などを行っています。大阪のボランティアセンターでは毎月第2金曜日6時半から最新のミャンマー情報や現地訪問の報告等ミャンマー問題の学習会をしています。現在抱えているたくさんの問題も含めていろいろミャンマーのことを勉強しながら、国境の支援活動を続けていきたいと思っています。何よりも難民キャンプやキャンプ以外の場所で出会った子どもたちが1日も早く幸せに暮らせるようになることを祈りながら活動しています。

関連記事

PAGE TOP