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2019.3.1
「ワークショップ 難民」(2003年6月25日)
難民事業本部関西支部では、シミュレーションやランキングなど参加型手法で難民について考える「ワークショップ難民」を、神戸YMCAと共催しました。5〜7月全6回のワークのうち3回はパレスチナ、ブータン、ビルマ難民について、自身が難民であったり、NGOスタッフや青年海外協力隊員として現地で生活した講師から、難民の暮らしや支援活動についてのレクチャーを聴きました。ワークショップでは、難民の定義から日本への受入れ等について活発な議論が繰り広げられました。
ここでは、ラタン・ガズメルさん講演の「ブータン難民」の概要を紹介します。
「ブータン難民」 ラタン・ガズメルさん(アフラ・ブータン代表)
私はロンドン大学でマスター(修士)を取り、帰国後専門機関で教員をしていました。1988年以降ブータン政府が打ち出した政策に反対して非暴力な抗議運動を行ったため、大勢の友人と共に逮捕されました。最初は死刑を、最終的には終身刑を言い渡されました。軍隊による拷問を受け、手錠と足かせをはめられて2年半独房に入れられ、家族や友人でさえ私が生きているのかどうかわからない状況でした。幸いなことにアムネスティ・インターナショナル等による世界的な圧力のおかげで釈放されました。釈放後、難民問題解決のための活動を開始しましたが、身の危険を感じたため、ブータンからネパールへ難民として逃れました。そして難民の帰国とブータン国内の民主化を強化することを目的に92年アフラ・ブータンの組織を作り、国際会議やジュネーブの人権委員会に対するアピールなどの活動を行ってきました。
ブータン難民の発生
ブータンは中国とインドにはさまれた小さな国です。現在まで絶対君主制がとられてきました。人口も60〜70万人と少なく、3つの大きな民族が住んでいます。北西部と中部にはンガロングというエリートの民族が、東部にはシャルチョップという民族が住んでいます。この2つの民族はチベット仏教ですが宗派は異なります。南部に住んでいる人たちはロシャンパで、ネパール語も話し、ほとんどがヒンドゥ教徒です。
これらの民族がずっと仲良く暮らしていましたが、88年に国籍法の改正、翌年には一民族一国家の政策が打ち出されました。同化政策のため民族衣装や言語等の文化を強制され、従わない者は投獄されたり、罰金を取られるなどのひどい仕打ちを受けました。平和的集会等による抗議活動を行った者たちはブータン国内やネパールの亡命先で逮捕され始め、89年末までに50人以上の人が裁判なしで終身刑とされました。ブータン政府はさらに厳しい政策を進め、91年には「自由意志で出国、移住する」という内容の書類を提出することを拒否した人々が逮捕されて、釈放される時には「私は家族と共に自由意志で出国する」という紙にサインさせられ、銃を頭に突きつけられて国を追い出されました。
現在ネパールに7カ所ある難民キャンプの人口は10万人を超えています。難民キャンプ以外に25,000人前後がネパールとブータンで住んでいます。人口60〜70万のほぼ6分の1の人々が追い出されているということになります。
難民キャンプの様子
キャンプで暮らす難民たちは15日ごとに家族単位でじゃがいも、米、豆類、塩、食用油、カレーパウダーなどの食料品をもらいます。食糧はWFP(世界食糧計画)から支給されてネパールの赤十字が配給作業を行っています。
ある程度の学校制度は整っていますが、高1までしかありません。アフラ・ジャパンは2年ごとに18名に対して奨学金を出しています。カリタスが支援しているのは学費だけで、しかも生徒の人数が増えているため、今年からトップの成績のわずかな人たちだけにしか学費を出せない状況です。今は国連の支援もなく、勉強がしたくてもできない状態です。
身体を洗い、洗濯をし、食器を洗うために1ヵ所の取水口を200世帯が利用しています。トイレや洗濯場の設置はブータン難民自身で考え出したものです。おかげで衛生状態はよくなり、大きな伝染病もなく、世界で1番きれいな難民キャンプだといわれています。
最近の状況
2000年に日本政府も含めブータンへODAを出している国々が初めてブータン政府に対して、ネパール政府と協力してブータンの難民問題を早期解決するように強く圧力をかけました。01年の3月から2国が共同作業チームを作り、難民キャンプで難民の確認作業を行い、ブータン政府は難民を4つのカテゴリーに分けました。第1のカテゴリーは強制的に移住させられた人々です。第2のカテゴリーは自由意志でブータンを出た人です。これはかっこ付きで、自由意志で出た人はいません。第3のカテゴリーはブータン人でない人々です。第4のカテゴリーは犯罪を起こした人々です。
私たちブータン難民は区分するのであれば、ブータン人であるかないかの2つだけのカテゴリーに分けるべきだとずっと反対してきました。現在はいろいろ厳しい条件が付いてはいますが、第1と第2と第4のカテゴリーは一応ブータン国民として認められました。
今後の課題
残された問題の1つはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民の確認作業や帰国の実施に一度も介入しておらず、ブータン政府、ネパール政府も介入を許さなかったことです。国連のような第三者の介入が必要不可欠であると私たち難民は思っています。
また、第2カテゴリーの多くは国に戻ることはできるのですが、申請しなければ国籍はもらえません。2年間監視されて、特に問題がなければブータン国籍をもらえるのです。教育や医療等の社会参加については現段階ではブータン政府は何も触れておらず、保障はまったくありません。帰国しても自分の土地を持てるか、国民として同等に受け入れられるか分からないなど、不安が一杯で本当に喜べる状態ではありません。NGOや難民のために活動してきた人たちはみんな第4の犯罪者のカテゴリーに入れられており、ブータンに帰ることはできても帰国後は刑務所に入れられます。第3カテゴリーのブータン人ではないとされた人々は結局ブータン国籍でもネパール国籍でもない無国籍のままで生活しています。
2000年以降の進展は国際的な圧力があったからこそです。日本政府もブータンに対して経済援助を行っている主な国の一つでありながら、難民問題解決のためにも貢献してくれました。今後もブータン政府やネパール政府に対して人権尊重に基づいた平和的な帰還が実現できるよう働きかけをしてくださることを望んでいます。
