ラオスの人たちとの出会いを思い出すとちょうど10年前になる。当時日本語教師として働いていたアメリカ・ウィスコンシン州の高校にたくさんのラオス系難民の学生がいた。彼らは、命からがら辿り着いた多民族社会アメリカで、ラオスの文化を静かに守っていた。アジアの文化を共有する私にだけは、ラオスの生活、食事、習慣、言葉などを笑顔でこっそり教えてくれた。その控えめながら強い心にたちまちとりこになり、私は日本語よりも英語を教えるようになった。それが、彼らにとっての一番の生活手段だったからである。
日本に帰っても急にラオスの味が恋しくなった。神戸の近くにもラオスの人たちが住んでいると聞いて、思い切って姫路の「ラオスの家」を訪ねてみた。残念ながら、畑の中にあったその家は今はもうなくなってしまったが、毎週日曜日になるとラオスの方々が集まる様子は、まるで「小さなラオス」そのものであった。
そこを訪ねるたびに、ラオス語が下手な私を、上手な日本語で迎えてくれた。彼らの微笑みには不思議な魅力が溢れていた。「ラオスの家」ではたくさんの料理に舌鼓を打ち、伝統的なラオスの踊りを教わった。
私はますますラオスのとりこになり、いつしかラオスを行き来するようになった。
ラオスでいつも私を歓迎してくれるのは、姫路やアメリカに住むラオスの方々の親戚だ。彼らは、いつも懲りずに笑顔で私をもてなしてくれる。そこはもう、「小さなラオス」ではなく、ラオスそのものである。本場の料理に賑やかな音楽、風がとおる水田、静かに流れるメコン。そして、ラオス語しか通じない世界。いつも身振り手振りで気持ちを通わせた。日本で生まれ育った私にとってラオスの環境は厳しく、病気を患ったこともしばしば。しかしそんな時でも、ずっと笑顔で支えてくれた。彼らの笑顔に何度助けられたことだろうか。
国境を越えて家族も分散されたという苦難の歴史を持つにもかかわらず、その苦労を全く感じさせない笑顔。なぜそんな笑顔を見せることができるのか、いつも不思議に思い、頭の下がる気持ちでいた。私は今もっとラオスという国について理解したいと思う。彼らがとおり過ぎたさまざまな経験を共有することはできないが、今後ラオスの人たちと共に過ごす時間をもっと持てたらそれが幸いである。
「かんさいレポート 2002年秋の号」より転載 |
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