2003(平成15)年に、日本政府が法務大臣から認定を受けた難民に対する支援を開始してから、間もなく3年が経とうとしています。新天地での生活を始めようとする条約難民と難民相談員とのお付き合いも数年にわたるようになりました。ここでは、ある条約難民の事例をご紹介したいと思います。
家族を持つ難民の場合、単身で入国した父親が、認定を受けるなどして在留資格を得た後に妻子を呼び寄せるケースが多く見られます。政情不安な国に家族を残して、日本で先の見えない不安な日々を過ごし、やっとのことで家族と再会する喜びは計り知れません。
SさんはB国の被差別民族出身で、国で民主化活動を行ったために投獄されました。彼をかばった父親は獄中で拷問の末死亡しましたが、Sさんは脱獄し、苦難の末に近隣のM国にたどり着きました。しかし、難民条約に加入していないM国では、Sさんのように出身国で国籍を得られずに迫害を受けて避難してきた人を庇護せず、滞在がわかると賄賂を要求したり、受け入れ先のない国外に「送還」したりするそうです。そこでSさんは組織を立ち上げて自分たち難民がM国で庇護されるよう国際機関に働きかけました。しかし、一時的に状況が改善されたものの、この活動によってSさんは要注意人物としてM国政府からも迫害を受けるようになりました。Sさんが再び国外への避難を決意したのは、初めての子どもが産まれる一ヵ月前のことでした。当局の追及を恐れて、計画も行き先も話さなかったにもかかわらず、当時18歳だった妻は黙って送り出してくれたそうです。
偽造旅券で日本に入国し、直ぐに難民認定申請を行ったSさんは、審査結果を収容施設内で待ちました。数ヵ月後、無事に難民認定と在留資格を得て、家族呼び寄せの準備を始めました。しかし、手続きについて相談した先でSさんが言われたのは、「国籍と旅券が無い家族の呼び寄せは不可能」ということでした。Sさんの妻は庇護を受けられないままM国に滞在する両親の元に産まれた無国籍者だったのです。妻と産まれたばかりの子どももまた、危険と隣り合わせの生活を送っていました。
わらにもすがる思いで難民事業本部を訪れたSさんは、私たち難民相談員の説明を受けて、経済力をつけるため給与の高い職場にすぐに転職して昼夜を問わず働きはじめ、同時に、入国管理局に提出する陳述書(理由書)と関係書類の準備を始めました。その時、既にSさんはM国で入手した関係書類すべての翻訳文を用意し、確定申告も自力で済ませていました。また、多忙な生活の中でSさんが作成した陳述書は、非常に克明で理路整然としたものでした。
いわゆる入管法では、無国籍者には帰国する先がないとして、妻子であっても呼び寄せに適用される制度はないそうです。しかし、無国籍者と条約難民の家族統合における初めてのケースとして、関係機関が連携を取ったところ、無事に2人の日本での居住を認める証明書が発給され、M国にある日本大使館からは日本入国に必要な査証と渡航証明書が迅速に発給されました。そしてSさんは1年4ヵ月ぶりに妻と、そして初めて我が子と対面することができたのです。
2005(平成17)年現在、Sさんは親子水入らずで暮らし、M国にいる親族に仕送りをしながら、日本で難民申請中の同胞の支援やB国の民主化のための政治活動を行っています。今回、悪条件にもかかわらず円滑に家族を呼び寄せることができたのは、Sさんの”家族と暮らしたい”という強い希望と、それを上回る強固な意志がもたらした結果であるといえるでしょう。さまざまな困難にくじけることも、難民相談員の支援に依存することもなく、自力で家族を守ろうとするSさんの姿勢に私たち関係者は深い感銘を受けました。
この先、Sさん一家は外国人が日本で暮らしていく上で起こる多くの問題に直面するかもしれません。難民とって一番良いのは、人権の問題が改善された母国に帰還し、自分たちの文化の中で生活を営み、国の繁栄に寄与することではないかと思います。しかし、直ぐにはそれが叶わない以上、せめて日本をはじめとする庇護国がSさんのような家族にとって住みよい国であってほしいと心から願います。そのためにも日本に住む難民が自らの能力を最大限に生かして安定した生活が送れるよう、難民相談員としてできる限りお手伝いをしていきたいと思います。
アジア福祉教育財団機関誌「愛」2005年12月発行より転載 |