2019.3.1
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日本語スピーチフォーラム
日本語スピーチフォーラムは、インドシナ難民定住者のコミュニティー団体が毎年企画している行事です。
カンボジア、ラオス、ベトナム等の難民定住者をはじめ外国籍の約10人の方々のスピーチが各3分行われた後、会場の方々も交えて定住外国人の抱えるアイデンティティなどの問題について語り合いました。
難民事業本部は、このコミュニティー団体の活動を助成金の支給や連絡調整などの面で支援をしています。
「日本での生活」
長瀬 珠里 (カンボジア)
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私は、1992年に難民とし、日本に来ました。最初は、やっぱり、言葉に苦労しました。でも、その時まだ小さかったので言葉とか覚えるのが早かったです。普通に小学校へ行き、中学校も行き、高校も行ったけど、親のために高校を2年で、やめて、働きに出ました。その時は、生活が苦しかったので、親のためだと思ってがんばって働きました。
今は、家も買って、昨年の6月に日本人と結婚をしました。私の旦那は、前に商売をやっていて失敗したが、私と出会ってもう一度商売をやりたいということで今は、ふたりでがんばっている最中です。
その商売っていうのは、リフォーム屋で、ボードを貼ったり壁を貼ったり床を貼ったり家の関係ならほとんど全部です。
私は妊娠8カ月まで仕事を旦那と一緒にやりました。
今は、子供も生まれ、仕事は休業中です。
子供は男の子で、名前は、翔聖(しょうせい)です。とてもかわいいです。しかし、まだ、3カ月なので、もうちょっと大きくなったら仕事に復帰したいなと思っています。
今は、旦那一人で仕事をがんばっています。一人だと大変みたいなので、早く手伝ってあげたいです。
私は、もともとそういう仕事が、大好きなので、一日でも、早く戻りたいと思っています。
今は、私のお父さんとお母さんと、妹と弟の実家で、一緒に共同で、暮しています。何事も、みんなで、助けあって幸せに暮しています。毎日が、とっても楽しいです。
「私のアイデンティティ」
水谷 誠 (ラオス)
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1986年、私と私の家族はラオス難民としてタイの難民キャンプから来日すると同時に、神奈川県大和市にあった大和定住促進センターへ入所しました。当時、私は2歳だったので来日したばかりの事は全く覚えていませんが、両親によると右も左も分からなかった私たちにセンターの皆さんはとても親切にして下さって、大変お世話になったそうです。皆さんのお陰様で現在、私たち家族は日本で幸せに暮らせているのだと感謝しています。本当にありがとうございました。
センターを退所すると私は普通の日本人がそうするように、保育園、小学校、中学校、高校へ通いました。保育園児の頃、自分自身がラオス人だということを自覚していましたし、両親から自分の国がどんなところなのかを聞くことも好きでした。また、聞いた事を友達や先生に教えてあげる事も好きでした。
そんな私が変わってしまったのは小学生になってからです。私は自分が学校で少数派であることを意識し始めたのです。私の学年にはラオス人が3人いましたが、男性は私一人でした。当然、一緒に遊ぶ相手は日本人で、彼らに同化しようといつも必死でした。ある日、友達とケンカをした時に「何で日本にいるんだよ、外人はさっさと国に帰れよ」と言われたことがあります。私は何も言い返せませんでした。私自身も明確な答えを知らなかったのです。何故、私は日本人ではなく、ラオス人なのだろうか、そう思いました。その頃は日本人になりたくて仕方がなかったです。
また、家庭では唯一日本語が出来る存在として頼られました。学校の連絡網や書類関係はほとんど私が対応しました。大きな買い物をする時なども私がお店の人と両親との間に入っていました。もし、私が日本人の両親を持っていればこんな事をしなくても良いのにと何度も思った事があります。
ある日、機会がありラオスへ行きました。両親の家族は暖かく私を迎えてくれましたが、現地の人々の目は私を外国人として見ていました。観光地へ行った時も私だけが外国人料金で入場料を払わなければなりませんでした。私はラオスにいても外国人。日本にいても外国人。私はどこへ行っても外国人なのです。もう自分が何人なのか分からなくなりました。
中学生になると高校受験で悩みました。日本人の家庭なら両親が色々と高校の事や受験のシステムなどを知っていて、おせっかいなほどに面倒をみてくれるでしょうが、私の両親は全くそういった事を知らなかったので、ただ応援してもらうだけで頼りにすることは出来ませんでした。私は次第に両親を尊敬する事も出来なくなり、私自身がラオス人だということに劣等感を持つようになりました。そして、私はラオス人であることを隠し、日本人として生きて行くようになりました。
高校生になると友達には私自身がラオス人であることは言いませんでした。友達が外国人について話し出すと自分の事を言われているようでドキドキしました。彼らが外国人について悪口を言っていても私は彼らに合わせていました。
現在では大学に通い、考え方も変わりました。まず、色々と両親に代わってやらなければならない事が嫌いでしたが、今ではそれは、友達も知らないような知識を沢山得る事が出来る良い機会だと思うようになりました。そして何よりも今では両親をとても尊敬しています。もし私が両親の立場だったら、両親が経験した苦労に耐えられるだろうか。そう考えると本当にすごい両親だなと尊敬します。また、その苦労に比べれば私のしてきた事はほんの小さな事だったと思います。
ただ、未だに曖昧なものが私のアイデンティティです。形式上、私はラオス人ですが、私自身はラオス人でも日本人でもないと思っています。その中間があるとすればそれなのかもしれません。正直、もう私自身は中国人でも韓国人でもアフリカ人でもカナダ人でも何人でも良いと思っています。なぜなら、国籍はいくらでも変えようと思えば変えられますが、私自身は変わらないからです。ただ、私自身のルーツがラオスにあること、両親がラオス人であることは事実です。その事実を受け止めようと思っています。ご清聴ありがとうございました。
「難民として」
山崎 亮介 (ベトナム出身)
私は、ベトナムで生まれ、12歳のころ日本に来ました。
私が小さい頃は、ベトナムは、北と南の戦争の真最中でした。夜になると空襲警報が鳴り、母が、私を抱いて掘った穴の中に逃げ込んだものでした。毎日が地獄でした。空の色が真っ赤に染まっていました。今でも頭の中から離れません。
ある日のこと、大人が集まって、ベトナムから難民としての脱出の話し合いをしていました。私は、それを立ち聞きして見つかったことがきっかけで、母や兄や妹を残して、小さい船で42人と共にベトナムを脱出しました。その船には、従兄弟も一緒でした。
私達の船は、三回も海賊におそわれました。最初の夜の海賊には、2個の船のエンジンとみんなが体につけていた貴金属などをもっていかれました。
二度目の夜の海賊には、何を持っていかれたか、覚えていません。
そして三度目の夜の海賊は、何も盗るものもなく、私達に食べ物を沢山くれました。
3泊4日の朝に船は、マレーシアに着きました。私達は、クアラルンプールの難民施設に移され、自分の行きたい国を希望することになりました。
まだ11歳の私は、どの国がいいか分かりません。ふたりの従兄弟が「一緒に日本に行こう、日本に行って3人で勉強をしよう」と言うので、日本に決めました。
しかし、日本は、私だけを受け入れました。2人の従兄弟たちは、どこにいるのか分かりません。
1年が経ち、私は、日本にやってきました。大和市にあった大和定住促進センターで3カ月間日本語を勉強しました。そして、私は当初お医者さんの里親のところに行くことになっていました。しかし、センターでの生活は、カンボジアとラオスの民族も一緒でその人たちとよく喧嘩をしていました。私は、センターの問題児でした。
3カ月が経ちセンターを修了した私は、新しく姫路の里親にお世話になりました。私は、小学校の5年生から入学しました。日本語もわからなく、毎日が喧嘩でした。でも、その担任は、私のことをいろいろ考えてくれて、小学校の1年からのドリルで毎日教えてくれました。日本語もうまくなり、中学に入学できました。でも、中学では、個人的に教えてくれる人はいませんでした。勉強ができない私は、ソフトテニスに打ち込みました。負けず嫌いな私は、すぐに上達し、ソフトテニスで有名な高校に推薦入学できました。つらい練習の毎日と敬語でうまく話せなくて先輩に怒られましたが、一生懸命頑張りました。そして、長野大学に推薦入学も出来ました。テニスの成績は、高校時代に、全国で選抜ベスト16です。インターハイは、ベスト32でした。大学では、勉強はほとんどせず、アルバイトの毎日で、4年で中退です。
その後、いろいろありましたが、学生時代にアルバイトをしたことのある鉄筋の仕事をはじめ、2年後に独立をしました。人を使うことは難しいです。でも、負けずに頑張っています。7年前に結婚をし、娘が生まれたことで、私は、日本国籍や鉄筋組み立て一級の資格も取り、都知事認可の鉄筋工事業も取得し、娘と嫁に感謝をしています。嫁に会っていなかったら、今の私はないでしょう。
私の本当の成功は、ベトナムに戻って事業を興すことです。
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