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2019.3.1

スピーチコンテストを開催しました (2001年)

出場者と審査員の方々
5月13日(日)、第7回「インドシナ難民定住者日本語スピーチコンテスト」を神奈川県横浜市の自治総合研究センターホールで開催しました。今年は、在日5年未満のA部門と、在日5年以上のB部門に分かれて審査を行いました。A部門の最優秀賞は、将来弁護士になりたいという夢を語ったスアー チャン サニさん(カンボジア)が、B部門の最優秀賞は、タイの難民キャンプのこと、日本に来たばかりの時のこと、「難民」という言葉が蔑む意味合いで使われているのにショックを受けたことなどを話したサン ナンさん(カンボジア)が受賞しました。
全員の発表が終わった後に行ったフォーラムでは、サン ナンさんのスピーチを受けて、来場者の一人から、「難民」という言葉を別 の言い方に変えてはどうか、という意見が出ました。また、学校の先生からは、定住者の子供たちの教育は日本語や教科の補習に重点が置かれてきたが、いじめなどの生活面 での問題にも留意していきたいとの発言がありました。定住外国人を支援しているボランティアからの、つらい経験を克服していくためには、理解のある友人を持つことが大切であり、その友人は必ずしも日本人である必要はないという言葉も注目を引きました。

●前回のスピーチコンテスト 最優秀賞者のスピーチ

A部門(在日5年未満)最優秀賞
「私の今と将来」

スアー チャン サニさん(カンボジア)

スアー チャン サニさん
皆さんこんにちは。私の名前はサニです。20歳です。去年5月3日にカンボジアから日本へ来ました。今、座間市さがみ野に住んでいます。
毎日日本語学校へ行きます。土曜日と日曜日と月曜日は学校へ行きます。土曜日と月曜日は淵野辺日本語学校で、ほかの国の人と勉強しています。そこは2時から4時まで勉強しています。私の家から学校まで電車で1時間50分かかります。日曜日は鶴間日本語教室へ車で行きます。そこは10時半から12時半まで勉強しています。
毎日家で日本語を勉強しています。4月9日からカンリン日本語学校へ行っています。そこは月曜日から金曜日まで1日4時間勉強しています。学校は青葉台にあります。日本語能力テスト1級試験を受けるために一生懸命勉強しています。将来弁護士になりたいから、これから法律を大学で勉強しようと思います。私はカンボジアの大学で法律を勉強したことがありますから法律が大好きです。カンボジアでは小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年勉強します。
私の夢は有名な弁護士になることです。カンボジアでは離婚裁判や土地の裁判の時に、弁護士にお金を払うことができない人がたくさんいます。私は弁護士になったらその人たちの弁護をしたいと思います。日本で法律の勉強が終わったら国へ帰って日本の法律の良い点とカンボジアの法律の良い点と合わせて正義のために弁護したいと思います。弱い人たちを暴力から守るのは法律だけです。また、カンボジア社会を守るのも法律だけです。そのために私は強い弁護士になるためにこれから大学院でマスターとドクターコースまで進学し、一生懸命勉強したいと思います。テレビを見るとき日本語の法律専門用語は、とっても難しいです。しかし、大学に入って一生懸命勉強すれば理解できると思います。なぜならば、努力は人のように人を裏切らないからです。最後まで私のスピーチを聞いていただき、どうもありがとうございました。

B部門(在日5年以上)最優秀賞
「第二の母国」

サン ナンさん(カンボジア)

サン ナンさん

皆さんこんにちは。私の名前はサン・ナンと申します。よろしくお願いします。
お父さんとお母さんがタイの国境を越える前に、カンボジアでは何があったのだろうか、日本に来るまで私は、カンボジアで内戦が起こっているということを知りませんでした。私は幼い頃からお父さんとお母さんと違って戦争を知らない子供でした。どうして自分はカンボジア人なのに、タイに住んでいるのかも不思議に思わないくらい、タイでの8年間の生活はかけがえのないものでした。タイでは戦争はありませんが、強盗や犯罪はありました。夜になると銃声の音が時々耳に聞こえてきたりすることを今でも鮮明に覚えています。事件が起こる度、みんなは自分たちの財産を持ち、逃げ隠れをします。お父さん、お母さんは、一生懸命私たちのことを守ってくれます。
*カウイダーンからたくさんの人々が外国へ夢と希望を抱き出発していきました。私の家族もその中の一家族です。日本に来ることが決まってから、私は毎日のように日本という国を想像しました。お侍さんのような人がいたり、着物を着ている人が歩いているのだろうか、そして雪は氷が降ってくるのかと思っていました。
日本に到着したのは、1989年7月28日。夜の10時に大和定住センターに着きました。最初に着いた時には、お腹をすかせた私たちに夜食のラーメンがでました。今決してレトルト食品を好まない私ですが、その時のラーメンは世界一おいしいラーメンでした。
大和定住センターでは8ヵ月間日本語の勉強と日本での生活を勉強し、センターからたくさんの家族が日本の社会へと自立していきました。私たちは、川崎の幸区というところに引っ越しました。周りの人々はみんな日本人でした。川崎に引っ越してから2週間もしない時に、父がひどい腹痛を起こしました。私もどうしていいか分からず、母はとっさにアパートの2階のおばさんのところに片言の日本語で「お父さんが痛い、お腹」と伝え、そして救急車を呼んでもらいました。右も左も分からない私たちを支えてくれたのは、近所の周りの人と、そしてセンターの人々でした。私は、日本語も分からないまま、小学校3年生に入りました。その小学校では外国人の存在が珍しく、私はずっと見られていました。小学校時代は私にとってこれといった思い出はありませんが、その時私には、言葉が通 じないという大きな壁がありました。言葉が通じなければ、友達もできない、彼らの言うことすら分かりませんでした。タイで好奇心旺盛だった私は、この時自信をなくした感じがしました。日本語が通 じないことで、学校からの手紙や情報も正確に伝えることのできないことがしばしばありました。初めての運動会の日も、運動会がどういうことかも知らず父、母は来れませんでした。私たち2人は、その運動会の当日に初めて日本の運動会ということを理解しました。
当時小学生だった私は、お父さんとお母さんよりも早く日本語を覚えることができるようになり、そんなある日、ある言葉をよく耳にしました。『難民』という言葉です。友達と小学校に向かう途中で、1学年上の男子に「難民がきたー!」と言われたことがありました。私は友達に「難民って何?」って聞きました。その答えを初めて知ったときにとても大きなショックを受けました。『難民』という言葉は私にとって差別 用語に感じられたのです。私は日本人にとってとてもかわいそうな人たちなのです。でも、私は日本に来れたことがとても幸運に思えます。これからも私は日本で生活していきたいと思います。現在は東京エアトラベル・ホテル専門学校でたくさんのビジネスマナーや教養を受けています。将来は旅行会社に就職して、カンボジアと日本の架け橋になれるような人になりたいです。私は今までたくさんの壁を乗り越えてきました。ですから、今はこうしてここにいるのです。私にとって日本は第二の母国です。私はカンボジア人で日本人なのです。ありがとうございました。

*カウイダーン(Khao I Dang)
タイにあった難民キャンプ

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