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2019.3.1

セミナー「わたしたちの難民問題」 (2000年1月20日)

「第二世代の定住ベトナム人」 オン・ホアン・ティ・ミンツさん

 私は今から12年前(1988年)、8歳の時に来日しました。それは、私が生まれる前から難民として日本に来ていた父が、姉と母と私を呼び寄せてくれたからです。小学校に入学したのですが、やはり言葉の壁は厚く、コミュニケーションも十分にとることはできませんでした。「あいつは違う」と思われていることが嫌で、周りの目を気にし、自分の名前を呼ばれることもはずかしいと思っていました。

 私が変わったのは高校に入ってからです。
 私はそれまで、同級生に自分が日本に来た理由について、本当のことを話すことができず、「父の仕事の都合で」としか話していませんでした。高校3年生のある日、ベトナムの高校と姉妹提携をしている高校を新聞に取り上げたいということで、インタビューを受けた私は、自分が難民として日本に来たこと、日本での生活で感じたことなどを率直に話をしました。記事が出てからの周りの反応がとても心配でしたが、その記事を見て初めて私のことを「難民」だったと知った友人たちは、口々に「たいへんやったんやなぁ」と声をかけてくれました。しかし誰もそれ以上のことは言いませんでした。この時が、「自分は難民だった」ということを公にした最初でした。小さい頃から、周りと違う自分のことがつらかった私ですが、この時から強くなれたような気がします。

 名前さえ言わなければ、誰も私のことをベトナム人だとは思わないでしょう。でも、私はベトナム人です。ベトナム人としての誇りをもって生きていきたいと考えています。今の日本の社会は、日本人が一番住みやすい環境になっています。外国人だからという理由だけで、職業に就けないことさえもあります。帰化してしまえば、それでいいのかも知れません。でも、私は自分の名前を捨ててまで、この日本で生きていこうとは思いません。 私はこれからもベトナム人としての誇りを忘れずに、国際化社会を前向きに生きていこうと思っています。


中津美和さん

 家の中でも、子ども達は第二世代ということで、様々な葛藤に苦しんでいます。母語をきちんと維持できていない子ども達が増えてきていますが、その場合、難を逃れて日本へやってきた非常に教育熱心なベトナムの親達は、仕事でのストレスや疲れ、日本人社会とのコミュニケーションの不都合等のしんどさもあって、ベトナム語で話しかけても返事をしない子ども達に対して、「ベトナム語が話せないベトナム人は恥ずかしい」というような発言を子ども達に直接向けてしまうことになります。「ベトナム人らしくない」と言われたり、あるいは、「日本人でもない」と身近な人間関係の中で言われたりすると、自分のことが自分で十分に説明できない「私はどちらでもない」という不全感に満ちた状況ができてしまうのです。

 私自身が(財)とよなか国際交流協会で日本人の子どもを対象にしたワークショップの開催を通 じて、日本の子どもに多文化の楽しさを教える以前に、自分らしさ・自分のことを肯定するという経験があるのだろうかと感じることがあります。たとえば、みなさんの家庭料理の味付けは様々に違っていて当然ですし、その違いがそれぞれの家庭らしさ・家族文化であると言えると思います。ところが、日本の子ども達は「自分の家ではこうです」ということを人前で語ることを好まず、「まわりのみんなと同じ」と「まわり」を知らず言う傾向があります。このように、日本の子ども達が自分の家の文化に一つの価値観を見いだして堂々とみんなに語るということがなく、ましてや日本人自身の持つそれぞれの違いすなわち多文化性というものに気づかないという状況の中で、ベトナムの子ども達に「頑張れ、頑張れ、ベトナム語を勉強しろ」というのは非常に酷なことのように思えます。日本社会に住む私達の問題として、私達が日本人の子ども達・後輩をどう育てていくのかということに一緒懸命取り組むことによって、結果 的には、ベトナムの子ども達も元気になっていくのではないかと考えています。

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