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2019.3.1

日本語スピーチコンテストの開催 (1999年)

第5回インドシナ難民定住者日本語スピーチコンテストの開催

神奈川県立地球市民かながわプラザホールで学生部門6名、社会人部門5名の計11名の方が自分の経験や思いを日本語で発表しました。小学校5年生から39才までの出場者が、母国でのこと、難民としての脱出時のこと、日本での生活や言葉の苦労、これらの人生について、熱い思いを日本語で発表されました。
そのスピーチは来場者に深い感動を与え、NHKテレビ首都圏ニュース、ラジオ、神奈川新聞等にも取り上げられました。
●学生部門最優秀賞「祖国での思い出」 グェン ファン ティ ホアン ハーさん

●社会人部門最優秀賞「私の家族」 トラン ビッチ イーさん

学生部門最優秀賞「祖国での思い出」
グェン ファン ティ ホアン ハーさん

グェン ファン ティ ホアン ハー
私はベトナムで生まれました。日本に来て4年が経ちました。今、私は中2です。今日は私が祖国にいた思い出を語りたいと思います
祖国と言うとお母さんのことを思い出します。私の家族は4人家族です。私は1985年生まれで、私の兄は1984年に生まれました。その後、私のお母さんは、前よりももっと忙しくなりました。そのまま、幸せに暮らせると家族のみんなは思っていました。でも、その生活は長く続くことは出来ませんでした。

私が生まれて2年か3年がたったある夜のことでした。お父さんとお父さんの友だちが集まって、相談が始まりました。その相談というのは、祖国を離れるか、離れないかのことでした。これに参加する人は150人もいました。一晩かけて出した答えは離れることにしました。そして、船や食料などを用意し、決まった日の夜に出発することになりました。しかし、このあとは自分たちの人生の中で、いちばんつらい思いと、苦しいあの思いを、忘れようとしても忘れられないあの思い出がみんなの中にはありました。その夜、母と私と兄が船に乗ろうとした時に、警察に見つかりました。私たちはとうとう船に乗れないまま、警察に捕まりました。母は船の後ろ姿を見るだけで、何も出来なかった。捕まったのは、私たちだけではありませんでした。他にもたくさんの人が捕まりました。船に乗れたのはたったの24人の男性しかいませんでした。

父たちが乗っていた船は、やがて燃料がなくなり運命のように波にまかせて流されることしか出来ませんでした。やがて、食料や水などがなくなりました。そこで、みんなが最後だと思い諦めていました。その時、ある船が近づいてきました。みんなは最後の力を振り絞って、その船に助けを求めました。そしてみんなは助かりました。私の父はフィリピンで長い長い4年間を過ごしました。父はその後、日本に来ました。でも、そこにいた父はいろいろ耐えてきたと思います。
母と兄の方では解放される日が来ました。でも、それからという生活はお母さんにとって、とても厳しい生活が始まりました。朝はミシンの仕事をして、夜は屋台で料理を作って売っていました。朝も夜も仕事をする生活というのは、母にとって始まりでもあるし、続くものでもありました。母は自分の生活だけで厳しいのに、私と兄の面倒もみなければなりませんでした。でも、この複雑な生活もだんだん楽になりました。

母は生活で苦しんでいるだけではなく、気持ちの面で傷ついていることもありました。それは、ベトナムにいない父を思う心と生活や、他にいろいろなことも母の身にありました。

私は見てしまいました。それはある夜のことでした。私と兄を寝かした母は外に出ました。私は外から何かの声がして目が覚めました。外に出て周囲を見回したら、家の陰に隠れている人がいました。怪しいと思った私は、近づいてみました。それは母がすごく悲しい顔で、小声を上げて涙を流していました。それを見た私は矢に打たれるような気持ちになりました。母は私がいることに気づいて、急いで涙をふき、私を家の中に入らせました。おそらく母は、長く涙を地面にはしるように流していただろう。それを見たのは1回ではありませんでした。私は、その時小さかったので、何も覚えていなかったけれど、このことは私の心に刻んでいるかのように、今でもはっきりと覚えています。そのつらい思いを抱えながら、母はお金を稼ぎ、私と兄を学校に入れてくれました。母は一人で私と兄をここまで大きく育ててくれました。そんなお母さんを尊敬して感謝しています。昔母が涙を流したことを今思い出すと、心が痛くなり、これからはお母さんが昔傷ついている心を少しでも癒して、楽にしてあげたいと心の底から思い出しました。

社会人部門最優秀賞「私の家族」
トラン ビッチ イーさん

トラン ビッチ イー
みなさん、こんにちは。私はカンボジアのプノンペンで生まれました。子供の時毎日勉強しました。大変うれしかったです。でも、15才の時国は戦争がありましたから、家族と一緒にベトナムへ逃げました。その時父は病気でした。病気の時薬がありませんでしたから、死にました。悲しかったです。いつまでも忘れません。私は結婚する前に美容院で働きました。結婚して辞めました。主人と時計を売っていました。今子供が二人います。

私の母と姉は日本に住んでいます。日本は大変好きだったので、行きたかったです。でも、主人は来られませんでした。ですから子供と一緒に日本へ来ました。今横浜に住んでいます。日本は本当にきれいで交通も便利で世界で一番強い国だと思います。
日本語は大切ですから、勉強しなければなりません。先生はみんな大変親切です。私は日本に来る前に日本語が全然分かりませんでした。今、少し日本語が話せます。先生が教えてくださいました。日本語は世界の言葉の中で一番難しいと思います。でも日本語が上手に話せるように、私は一生懸命勉強を続けます。もっと日本語が上手になってお金もあったら、日本のいろいろきれいな町を見物したいです。

私は日本語があまり分かりませんですので、いつも困ることがあります。仕事の面接に行ったことを思い出しました。その時とても心配でした。けれども、社長は優しい人です。仕事の内容について親切に教えてくださいます。ですから、仕事が上手くいっています。
私の子供たちは、勉強が好きです。毎日、学校から帰ってから、学校のいろいろなおもしろい事や先生たちを大好きだということを話してくれます。私は聞くとうれしいです。主人はいませんですから、子供の生活のために一生懸命働きます。毎週日曜日、大和の日本教室で日本語を勉強します。先生たちは親切に教えてくださいます。本当にありがとうございます。

日本はいい国です。日本は平和でいい国ですから、私と子供たちは日本の国が大好きです。昔から日本はいつも困っている国にお金や薬品や品物を救援しています。このことは、私は子供の時に父から聞きました。今日本へ来られて日本に住んでいる私はとても幸せだと思います。世界中の人たちも私のように幸せになってほしいと思います。

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