INFORMATION

2007.5.20

日本語スピーチフォーラム

日本語スピーチフォーラムは、インドシナ難民定住者のコミュニティー団体が毎年企画しているものです。
ベトナム、ラオス等の難民定住者をはじめ約10ヵ国の方々のスピーチが各3分行われた後、会場の方々も交えて定住外国人の抱える問題を共に語り合います。
難民事業本部は、このコミュニティー団体の活動を、助成金の支給や連絡調整などの面で支援しています。
日本語スピーチフォーラム
開催日時 開催場所 タイトル スピーチ者
第13回 2007.5.20 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
日本での生活 長瀬 珠里(カンボジア)
私のアイデンティティ 水谷 誠(ラオス)
難民として 山崎 亮介(ベトナム)
    日本語スピーチフォーラムが行われたあーすフェスタかながわの様子はこちらからご覧いただけます。
あーすフェスタかながわ
第12回 2006.6.4 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
日本での生活 五十嵐 亜紗美(ラオス)
日本での生活史 チュープ チャンダラプット(カンボジア)
みんなで考えれば トルオン ティ トゥイ チャン(ベトナム)
第11回 2005.5.15 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
僕の将来の夢 私の言いたいこと ダン トロン タオ(ベトナム)
僕の将来の夢 ドゥアンダラー タニオ(ラオス)
日本に住む外国人と日本人 日野 英梨(ベトナム)
第10回 2004.5.16 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
私の大切に思っていること R・S
ラオス人の私 ゴー ピッサマイ(ラオス)
私の希望 ユーエン ワンナー(カンボジア)
難民2世のアイデンティティ グエン ティ タン マイ(ベトナム)
第9回 2003.5.11 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
日本での生活 ソー・ヌン(カンボジア)
親子 ペットソンプー・アンポン(川村愛)(ラオス)
多分化共生 チン・ケンリアン(カンボジア)
ベトナム人として トルオン・ティ・トゥ・トラング(ベトナム)
ラオス文化センターの建設 ポンサワット・ヌアントン(箱崎明弘)(ラオス)
第8回 2002.12.1 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
インドシナ難民定住者の抱えている問題 レー・バン・カン(ベトナム)
小学校や中学校で感じたこと コンサワン・ブンタン(ラオス)
憩いの場をつくりたい 伊佐・リスレン(カンボジア)
第7回 2001.5.1 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
私の今と将来 スアー・チャン・サニ(カンボジア)
第二の母国 サン・ナン(カンボジア)
第6回 2000.11.26 神戸市 兵庫県民会館 周囲に目を向けて オン・ホアン・ティ・ミン・ツー(ベトナム)
「日本のおとうさん・おかあさん」教育について 下野きみ(ベトナム)
第5回 2000.1.23 横浜市 神奈川県立
地球市民かながわプラザ
祖国での思い出 グエン・ファン・ティ・ホアン・ハー(ベトナム)
私の家族 トラン・ビッチ・イー(ベトナム)
第4回 1999.1.24 東京都 国際救援センター 平和・祖国を想う ヴォン・チィ・トゥルン(ベトナム)
自由への道 シハラート・マニニュン(ラオス)
第3回 1997.10.12 東京都 都立国際高校 外国人差別 トリン・ホアン・バオ・ティ(ベトナム)
日本人がきらいでした コンサワン・ブンタン(ラオス)
第2回 1997.1.19 横浜市 神奈川県社会福祉センター あなたに伝いたいこと ル・グエン・ゴック・ハン(ベトナム)
日本の勉強 サオ・サコム(カンボジア)
第1回 1996.1.21 横浜市 横浜市民会館 日本に定住して・夜が来て朝になった ロァン・タン・ゴック(ベトナム)
1996.2.4 姫路市 淳心会ヨゼフ館 今を未来を生きていきたい パカイファン・ミッタコン(ラオス)

第4回学生部門最優秀賞
「平和・祖国を想う」

ヴォン・チィ・トゥルン(ベトナム) みなさん、こんにちは。長崎県の大村から来ました、ベトナム難民のヴォンと申します。
僕が生まれたベトナムでは、長引く戦争の影響で家族の生活が大変苦しくなり、もうどうにもならないということで、死を覚悟して、何百人という人々たちが、新しい生活を求めベトナムを脱出しました。これがボートピープルです。僕も今から9年前、父と一緒に、縦が9メートル、横がわずか1.5メートルのボートに43人が乗り、わずかな食糧を積み、船板一枚に託しての脱出ですから、本当に命懸けでした。出航して2日後には機械は壊れるし、風まかせの漂流ですから、やがて食糧が無くなると、苦しみと絶望感で若い2人が海に飛び込み自殺を図りました。残る41人はあくまでも自由を求め、生き延びたいということで、運を天にまかせ、神を信じ、最後の息がなくなるまで“自由”を求め続けました。
その思いが天に通じたのか、僕たちはラッキーなことに、日本の船に出会い、乗り移ったときは、心から神に感謝し二度生まれたという気がしました。
このようにして、日本に来ることができたわけですが僕たちは、政府の温かい思いやりで日本に永住することができました。また、ありがたいことに、僕たちの立場を政府に理解していただいて、1995年3月、政府の許可がおり、ベトナムに残してきた家族6人が、日本に来ることができるようになったことを感謝しています。本当に日本政府にお礼を言いたいと想います。ご恩は一生忘れません。
今の僕たちは幸せに生活しておりますが、祖国は今でも大変貧しく、生活も苦しいし、いまだに戦争の後遺症が残っています。
日本でも今、ダイオキシン汚染が問題になっていますが、ベトナム戦争では大量の枯葉剤がまかれ、ダイオキシンで土地が汚染され、美しいマングローブの森が、次々と姿を消してしまいました。戦争中、埋められた地雷を踏み、いまだに命や手足を落とす人たちが多くいます。
何のためにこんなむごたらしい戦争を起こして動物みたいに殺し合いをしたのか、その理由については理解できません。
今でも父は戦争の光景をみると、自分たちの戦争を思い出し、悲しい思いで胸がいっぱいになると言います。そして、その悲しみをどう訴えていいのか分からないし、自分自身が何もできないのが腹立たしいと訴えます。
僕はこの父の意志を受け継ぎ、戦争の恐ろしさ、戦争のむなしさ、平和の大切さ、命の大切さを世界の人に訴え続けていこうと思います。
先日、ユニセフの発表によると、わずかなお金で多くの命が救える国があると聞きました。世界には貧しい国がいっぱいあるんだなぁと思いました。昨年の夏に、私の国では台風のために42万もの家屋が壊され、600余りもの学校が被害にあったと伝えられていました。一日でも早く安心して生活できるよう、心から願い何とかしてやりたいと思うのですが、これといった手助けができず胸が痛みます。
僕は、今高校の国際科に在籍して一生懸命勉強しています。祖国が平和で豊かな国になるよう心から願い、将来はベトナムと日本の架け橋となるような人間になりたいと決意しています。

第4回社会人部門最優秀賞
「自由への道」

シハラート・マニニュン(ラオス)

 はじめまして、みなさん、こんにちは。私は、ラオス出身のシハラート・マニニュンと申します。私はこのスピーチコンテストに参加ができたことを、今年の一番目のうれしいできごとです。少しちょっと緊張ぎみですけれども、私の意見をお話ししたいと思います。今日のテーマが「自由」って聞いたことを、私は、自由っていうと、何を話したらいいか、なかなかテーマが見つからないんですけれども、ありのままの私をお話ししたいと思います。
私は高校卒業後、今、横浜にあるゴルフ場の中で、九兵衛という会社に勤めて2年目になります。この2年間で、私はすごく長かったような気もするんですけれども、その中で自分に強く学んだことがたくさんあります。その中でも、私への仕事に対しての責任感や人間関係、そして会社に貢献することです。これらは、平凡な日常生活の社会人のことでもあり、私にとって一日一日が強くなってきたことだと日ごろ実感ができるようになりました。今まで以上に自分の目標をたくさんみつかることもできました。目標に向かって、何事にも一生懸命に取り組んでいけば、今の現状の不況の時代の中で、自分に自信をつけられる力が生まれると思います。それに対して、私を支えてくださった人たちや、家族や友達とかにすごく感謝しています。この中で、私、友人から教えていただいた言葉なんですけれども、何事にも「ラッキー」という気持ちを持つことが大切だと教えてもらったんですけれども、ヤなことでも「ラッキー」って思うような気持ちで日ごろ過ごしていくと、自分に前向きにもなるし、例えば、スピード違反でつかまったときに「ラッキー」って思うんですね。でもまさかそれは、私も捕まったことあるんですけれど、スピード違反で。でも、どう考えてみても、「ラッキー」って思えないんですね。まあ、これらの出来事によって、自分を見つめなおす、っていう、反省の気持ちを与えてくれる、きっかけなんですね。まあ、スピード違反捕まったからってくよくよしないで、これからどうしたらいいのかを自分に考えさせる力を与えてくれたきっかけだったと思うんですね。会社の上司に怒られたこらって、どうして怒られたかを考える気持ちをさせて、そういう気持ちを考えさせてくれるんで、ヤだと思わないで、くよくよしないで、これは、自分にとってこれからプラスにもなっていくことであるし、それをラッキーって思うと、すごく自分が前向きに毎日過ごしていく気分になるんですね。
まあ、これが私流の自由への生きる道だなって思って。今日もここに立つことがすごく恥ずかしいことだと思って、緊張しているんですけれども、これは何かのきっかけになるし、すごくヤだったんですけれども、今は「ラッキー」ですね。皆さんに自分のことを考えさせてもらって、自分の存在ですか、知ってもらうために、ここに立てたことを大変嬉しく思っています。ありがとうございました。

第3回学生部門最優秀賞
「外国人差別」

トリン・ホアン・バオ・ティ(ベトナム) みなさん、こんにちは。私はベトナム人のトリン・ホアン・バオ・ティです。私は両親がボートピープルで日本へ逃げてきました。私は、両親が難民センターにいるときに生まれました。だから、私は日本語もしゃべれたし、日本の習慣にもなれていて、何一つ問題なく生きていくことができました。だけど私のまわりには、日本の習慣に慣れないとか、そんな悩みを背負って生きている人がいました。時には自殺したいとか、いう人もいました。
ある友達が私に「差別があるみたい」と言ってきました。その子の話しを聞くと、なに人?とか、外国人のくせに、とか外国人が来るぞと言われたみたいです。その子はその一言ですごくきずついていました。私は、とてもその子がかわいそうに思いました。だけど、私もこの子と同じ外国人です。とてもひと事とは思えないように考えてきました。
祖国を離れて知らない国にきて、大きな不安をせおって、生きていく人はたくさんいます。そんな人にそんなことを言ったら、この人たちは生きる自信を失います。そして犯罪を起こします。私はいろいろな所でそういうことをみてきました。
「どうしてそんなことするの?」と聞くと、「しなければ生きられない。お金がない」と言います。日本語があまりわからないから学校に入れないとか、会社に入れないとか、そんなことを言ってきました。そんなことをすると、お金がなくて犯罪します。
私はあるとき、ショッピングにでかけました。ちょうど前の方でベトナム人がベトナム語で話しをしていました。ちょうどその横を子供づれのお母さんがとおっていました。そのお母さんは、「まあ、外国人だわ。見ちゃいけません」と言っていました。私はとても見ていられなくなりました。その子供は大きくなってから外国人を差別するでしょう。お母さんのいいつけを守るでしょう。そんな人が増えるのか、それとも反対にみんなと仲良くできる子が増えるのかと私はずっと考えていました。
今、国際化している世界でどんな人とでも仲良くできる人が増えてほしい。どんな国から来ようがどんな人であろうが、同じ人なんだと思える子供が増えてほしいです。
いつか、世界の人たちがみんな仲良く幸せに暮らせるような、幸せな世界が来るといいと思います。

第3回社会人部門最優秀賞
「日本人がきらいでした」

コンサワン・ブンタン(ラオス)

 みなさん、こんにちは。ラオスのコンサワン・ブンタンです。
私は日本に来たばかりのとき、日本にいるインドシナの友達に聞かれました。「ブンタンさん、日本に住んで何年ですか?つまらなくないですか」私がまだ返事しないうちに、友達は話し続けました。友達は日本に来て6年目でした。「ごめんね、ブンタンさん。めいわくだと思うけど、ちょっと聞いてほしい。私は日本と日本人が大きらいなの。今の会社もうダメ。やめさせられたの。会社のりょうを追い出された。アパートを探しに、不動産屋さんに10ヵ所行ってきた。でも、かりられなかった。外国人は日本に住んで7年目以上になると、せいしんびょうになるよ」その時、何も知らない私にはアドバイスができませんでした。
私も日本に住んで5年目のとき、しれんがありました。台風にとばされたような人生でした。1993年、日本に住むためのビザをえんちょうするために、ほしょうにんが必要でした。けれども誰もほしょうにんになってくれなかったのです。会社の総務の人に相談しましたが、なかなかひきうけてくれる人がいませんでした。部長が4人いましたが、そのうちの3人はしらんかおをしました。さいごの一人は今すぐ返事はできないといいました。その人は入国管理局と大和定住促進センターに電話をかけました。そして私が借金をしていないかどうか、悪いことをしていないかどうかなどを調べました。私にもこのことを確かめてから、「この保証書の内容はわかるかい?自分のことは自分で責任をとりなさい。ぼくは、はんこをおすだけだよ」と言いました。冷たいなぁ。
その他に、もっとひどいことはいろいろありましたが、でもここでは話したくありません。私はその人たちをうらんでいません。それよりも自分の心を高くしたいと思いました。友達は、せいしんびょうになるよといいましたが、いやなことや問題があっても自分で受け入れられれば、ノイローゼになりません。そのために自分の生活についてよく考えました。
私のばあいは計画を立てて時間を使います。仕事がある日でも、自分の自由になる時間は勉強します。土曜日はへやをそうじしたり、買い物をしたりします。日曜日は、キリスト教会の礼拝に行きます。私は、大和定住促進センターを出て就職してからは、南林間にあるキリスト高座教会で日曜日の礼拝に出てお祈りしています。さまざまなしれんにたえられるように心を高くして他人とお互いに愛し合います。日曜日の日本語教室にも通っています。日本語が話せれば、いじわるなことを言われてがまんできないとき、言い返せます。しんらいできる日本人の友達もつくれました。
私は日本がだんだん好きになりました。1995年には、日本の国籍をとりました。今、日本は私の第二の祖国です。

2回学生部門最優秀賞
「あなたに伝えたいこと」

ル・グエン・ゴック・ハン(ベトナム) 私は日本にきて15年になります。今は、毎日とても充実しています。
学校では友達と楽しく過ごしています。友達は、私が外国人だからといって、差別したり近寄らなかったりしません。普通の友達と同じ感覚で接してくれます。先生方も、地域の人も、みんな。
でも、みんなは私にとっても親切にしてくれるのに、同じ外国人の友達には、あまりかかわりません。学年で外国人は、ベトナム人の私とラオス人のAさんです。でも、Aさんは今は学校へは来ていません。私も、私とAさんの間には、同じ外国人としてみんなとは違う感じがあったんじゃないかなと思います。
Aさんが転校してきたのは、私が小学校5年生のときでした。それまで学年で外国人が自分一人だけだったから、とてもうれしく思いました。Aさんは新しい日本の友達と一緒に、おしゃべりしたり、大なわをしたりして、とても楽しそうでした。でも、今考えてみると、みんなきっと珍しいものを見ているという軽い気持ちで接していたんではないかと思います。なぜなら、3ヵ月もたたないうちにAさんは初めの3分の1ほどに友達が減り、そのうち、だんだん陰口を言われるようなって。そして、ある自習の時間。ある一部の男子が、下じきを持ってAさんをあおぎながら「くさい、くさい。くさい、くさい」そう言ったのです。私は何も言えなかった。言おうとしても口が開かなくて、体中がかたまってしまったようになったのをおぼえています。今思い出してもすごく胸が痛いです。でも、私以上にAさんももっと胸を痛めていたと思います。
あれからもう何年もたつけれど、みんなはあのときのことをどう思っているんだろう、そう思うことがあります。
今の時代「使い捨て」だとかいわれているけど、使い捨てしてはいけないものまで使い捨てているんではないでしょうか。人の気持ちとか、人の名前とか、人の肌の色とか、話している言葉で差別したりしていませんか。
本当は自分さえよければいい。自分に危険がなければそれでいい。なんて考えている人、山ほどいると思うけどそういう汚い心は裏にかくして人前で「差別はやめよう」と言っているけど、そういう人たちが一番、人の心を知らないところで気づかいないところで、踏みにじっているんではないでしょうか。
私が、あなたに伝えたいこと。誰だって、24時間、誰かに必要とされたいからがんばっているんです。そして自分を守りながら、まわりの人を守りながら精一杯今を生きています。この先何が起こるかわからないけれど、いつの時代も、人を大切にすること、これが一番大事なことではないでしょうか。
私も、大人になっていくけれど、人を大切にすること、このことだけは、大切にいつまでも、忘れないようにしたいと思っています。
そして、いつかAさんに出会ったら、心の底から会話ができるような人間になっていたいと思います。そして、もう二度とこんな悲しい思いを誰にも味わってほしくないです。もう誰にも。

第2回社会人部門最優秀賞
「日本語の勉強」

サオ・サコム(カンボジア)

 私はサコムで18才です。私はカンボジアにいたとき日本の国のことを知りませんでした。でも私は自分でいつか日本へ行きたいと思っていました。私の父と母が日本にいて、日本に来られるよと言ったから、私はやっと日本に来ることができたのです。私は日本に行けると聞いたときとてもうれしかったです。そして日本へ来て家族に会えたときも、うれしかったです。
私は日本へ来て一週間後、家で少し日本語の勉強を始めました。私は姉と一緒に、父と母に教えてもらいながら「あいうえお」を勉強しました。はじめはひらがなの書き方を勉強しました。ひらがの書き方はなかなか覚えられなくて、とてもむずかしかったです。でも私は毎日練習して少しずつひらがなを覚えました。一ヵ月後近くのボランティア教室に行きました。一週間に2回勉強に行きました。初めて教室に入ったとき、私は何も話せなくて何も分からなかったですが、教室に入って自分の席に座って、勉強を始めました。私は新しい生徒ですから、先生と一緒に2人で勉強しました。勉強の前に、先生は私に名前と住所と家族について質問をしました。その時私は何も分かりませんでしたが、父が私をその教室に連れてきてくれたので父が通訳してくれました。その一週間後今度私は1人で教室に行きました。教室に入っても私はあいさつをしませんでした。私はあいさつをしたかったのですが、何と言えばいいのか分からなかったのです。その日私はA組に入りました。その日A組ではあいさつの勉強をしました。まず先生は「『おはようございます』と先生の発音のように言ってください」と言いました。私の発音は全然違って、とてもむずかしかったです。正しい音が出せなかったので、その週のあいさつの勉強はできませんでした。
私は家に帰って、父と母に聞いてから、そのあいさつを家で何回も練習しました。それから私は電話をよくとりました。時々、妹の友達が私の家に電話をかけて日本語で話しました。その時私は分からなくて電話はよく切られました。母が「今度誰かから電話がかかってきたら『ちょっとお待ちください』と言いなさい」と教えてくれました。私はそれを覚えました。次の勉強のときからいつも先生たちにあいさつをしました。私は少しずつ話せるようになって、とてもうれしかったです。
そして、1995年10月15日に大和定住センターに入りました。センターで4ヵ月だけ毎日日本語を勉強しました。月曜日から金曜日までです。センターで勉強したとき、とてもおもしろくて大変楽しかったです。新しい言葉もたくさん覚えましたし、違う国の友達もできました。先生たちもやさしくて親切で、ずっと忘れられません。
センターでの勉強が終わってから、センターで習ったことを何回も家で練習しました。もっといろいろなことを勉強したいと思って、またボランティア教室で日本語を勉強しはじめました。今私はC組になっています。今仕事をしていますから、一週間に1回だけ勉強しています。私はC組になってよかったです。先生たちはいつもやさしく教えてくださいます。
私はC組になって、本当に日本語がとてもおもしろくなりました。そして、日本語の勉強が大好きになりました。私はもっと日本語を勉強し、もっともっと上手になりたいです。今私は日本の学校に行きたいと思っています。学校で日本のことをもっと知りたいです。昼間働いて夜日本語の学校に行きたいと思っています。これからも日本語の勉強を頑張ろうと思います。よろしくお願いします。

第1回最優秀賞
「日本に定住して・夜が来て朝になった」

ロァン・タン・ゴック(ベトナム) 皆さん、こんにちは、私はベトナムのロァン・タン・ゴックと申します。
1989年7月26日の夜、私は、この日を忘れることはできません。17才の時から、この日まで、10年間に50回も、ベトナムを脱出しようとしました。とうとう、この夜は、43人の仲間と一緒に、小さい船に乗り、沖へ出ることに成功しました。祖国を離れることの悲しみと、この日のために頑張ってきた思いが、私の胸を締め付けました。
長さ7m、幅1m20cmぐらいの小さな船に大勢の人が乗ったので、間もなく、エンジンが故障してしまいました。目的地のマレーシアどころではなく、潮の流れるまま、小舟は流されていきました。何回も何回も、すれ違う外国船に、手を振りました。大きな声で叫びました。しかし、どの船もこたえてはくれませんでした。焼けるような太陽が、一日中私たちを追い掛け回します。食べ物も、水もありません。たまにあるスコールだけが、命の水でした。私たちは、「神様、助けてください。助けてください」と何度も祈りました。
朝になり、夜が来て、朝になり、また夜が来ました。14日目のことです。私たちの近くを、また外国の船がとおりました。私たちは手を振りました。叫びました。すると、その船は、私たちの方へ、どんどん近づいてきました。私たちは、助けられたのです。でも、その時、仲間は2人少なくなっていました。途中で死んでしまったのです。私たちも99%死ぬと思っていました。船長さんは、まず、おかゆを私たちに食べさせてくれました。着る物もくれました。
私たちはみんなで、船長さんに「ありがとう」と言いました。すると、船長さんは「私にありがとうは、言わなくてもいいですよ、自分の心の神様に感謝しなさい」と言いました。その船はカンクローマルという日本の船でした。私はカンクローマルに乗っていた日本人たちを忘れることはできません。船長さんは、キリスト様でした。
長崎の大村収容所に、4週間いました。それから広島の難民センターにもいました。品川のセンターにもいました。親切で、心の広い日本人に、大勢会いました。粕谷神父様のおすすめで、鎌倉に住み、鎌倉で働くことになりました。それから4年たちました。妻と2人の子供、親子4人が鎌倉で平和に暮らしています。
鎌倉市では、言葉の分からない外国人のために、毎週、日本語会話講座を開いてくれます。その平和な生活をとおして、世界の平和を祈っていきたいと思います。
ありがとうございます。

第1回最優秀賞
「今を未来を生きていきたい」

パカイファン・ミッタコン(ラオス)

 みなさん、こんにちは、私が日本に来て、間もなく6年になります。私は、自分の国(ラオス)に4年間いて、そしてタイへ渡り、タイでの生活は6年間という私にとってとても長い日々をすごしました。タイでの生活は、とても苦しく大変でした。でも、私たちは生きてゆくために、お互いを励ましあいながら一生懸命生きてきました。私は、これまで、15年間いろんな人々と出会い、いろんなできごとに出会ってきました。だけど日本に来て、今まで私のあじわったことのない、とても、寂しくて、悲しくて、そして、とても苦いできごとに出会ってしまいました。それは、たったかん字2文字の“差別”でした。この言葉が大きく私の人生を変えたのです。生活していく場面では、車を買えば「ナマイキねー」外出すれば「今日は、あんな服着てる。どこ行くのかしら」帰りが遅くなれば「こんなに遅くまで何をしていたのかしらねー」というふうに、何をやってもうわさされる。何をやっても、変な目で見られる、言いかえせば、「外人のくせにナマイキなこと言うな!ここから出て行け!自分の国へ帰れ」って、そんなことを大人が言うから、腹が立つどころか、もしや殺してやりたいほどでした。私にとって毎日がまるで地獄のようでした。泣いてももう一滴も涙は出ない。泣きつかれてしまいました。
私たちを、こんなめにあわせたすべての日本人が憎いと思いました。なぜ外人というだけで差別されるのだろう。私は、それを理解できないまま、同じ人間に対する憎しみをおぼえてしまった。本当は、憎しみなんかおぼえたくなかった。でも、今思うと差別にあうのもいいかもしれません。差別されないより、1回差別されたほうがいいと思います。そう、差別は決していいことではない。でも、私は差別にあってから、強くなりました。ガマンすることをおぼえました。差別されて、とても寂しくて、悲しかったけれど、差別にあって「今を、未来を生きていきたい!」そう思いました。だから、負けられないのです。今まで、かぞえきれないほどのどんなに大きな“カベ”でものりこえてきた。だから、たとえ、この差別がどんなに大きなカベでも、私が私であるかぎり、かならずこの手でのりこえてみせます。
「今を未来を生きていきたいから」
そして、この世の中から、少しでも差別をなくしていくためにも、私たちをうけ入れてほしい。外人としてではなく話し合える仲間。協力できる仲間として、同じ日本人に、そして同じ人間としてうけ入れてほしいと思います。
私は、あなたたちが心をひらいてくれる日がきっとくると信じています。その日が来るまで心の底から、楽しみにしています。たとえ、それが10年、20年たったとしても、私は、ずっとまちつづけたいと思います。早くともだちになりたいです。

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