2006.3.1
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今日の話は、私が大切に思っていることです。
どうして、人々は自分の住んでいるところと、自分の生まれた所を離れて新しい生活を探すのでしょうか。本当にいろいろ理由がありますが、でも皆ひとつの同じ理由になると思います。皆、自由になりたいのです。
だから、新しい国を選びました。皆さまよくご存じだと思いますが、新しい生活と新しい文化と違う規則を分からなければたくさん失敗をすることがあるので、いつも困ります。
私は、日本に来た後で、たくさん問題がありました。例えば、言葉が分からなかったし、日本人の考えることも知らなかったし、時々失敗もありました。日本語が分からなかったので、失敗した理由は分かりませんでした。時々私の日本語はおかしくて、皆が笑ったので、とてもはずかしかったです。
仕事でいろいろ問題もありました。日本に来たときは本当に子どもみたいで、いろいろ覚えなければなりませんでした。でも、いつも自信をもってあきらめませんでした。それで、生活を楽にするために何をしたらよいか、本当に大切なことは何かを考えました。それに答えをみつけました。
私に一番大切なことは友達です。友達をみつけるために、ゆっくりゆっくり自分にいいきかせました。皆を招待して、家でお茶を飲みながらいろいろ話しました。日本の生活や日本人の考えることや日本語などについて、友達が教えてくれました。
今、近所の人たちと皆友達になり、私を一人の人として分かってくれました。顔かたちは、違うけれど、人として皆と同じように心があります。
友達をみつけた後で、私の生活も変わりました。寂しくなくなり、失敗も少なくなり、日本の生活も分かるようになりました。
日本に来てから、たくさん経験しました。もっと、私のことを知ってもらいたいし、お互い理解したいです。これからも、よろしくお願いします。
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私が9歳のころ、ラオスの国は自由のない国に変わりました。私の家族は、国境のメコン川をタイに逃げて、難民キャンプにいました。私はタイのキャンプでは、ラオス語とタイ語は似ているのでタイ語でも話すようになりました。そして、16歳のときに、キャンプにいたカンボジア人と結婚をしました。私たち夫婦は、身振り手振りで話すことも多かったです。夫の家族が日本にいたので、私たち夫婦は、少し早く日本に来ました。大和定住促進センターで日本語などの勉強をして、仕事や住むところを見つけてもらい働きました。夫婦の会話は、タイ語、日本語、いらいらするときは相手に分からなくても、それぞれ自分の国の言葉です。
やがて、私の両親や兄弟も日本に来ました。姫路定住促進センターを出た後は、神奈川県にみんな住みました。両親たちは、日本での生活も浅く、日本語が分からないので、私は仕事を休んで両親の病院に付添ったり大変なころもありました。
私には、娘が二人います。日本で生まれた娘たちは、日本語については安心です。そこで小さいときから娘にはラオス語で話します。毎週土曜日にはラオス語教室にも通わせています。また、ラオスの伝統文化も大切です。いろいろな行事のたびに、私はラオスの踊りを踊ります。娘にもラオスの踊りを教えます。
ラオスの文化を守り、子どもたちに伝えたい気持ちは、ラオス人みんなの思いです。長いことお金をみんなで貯めて、やっと2003年6月に在日本ラオス文化センターができました。お坊さんもいます。私は毎日夕方の6時から朝までお弁当を作る工場で働いています。毎日深夜の仕事ですから疲れていますが、休みにはお坊さんの世話をしに娘を連れて文化センターに行きます。
ラオス人にとって文化センターは憩いの場所です。私たちにとってお坊さんは大切です。いつもセンターにお坊さんがいてくれるというだけで、安心して仕事も辛いことも我慢できます。でも、お坊さんは日本に長くは住めません。ビザは短いので、お坊さんが行ったり来たりする交通費も大変です。
私はラオスが好きです。娘たちとのラオスへの里帰りを楽しみに働いています。娘たちは私がタイのキャンプにいたころの歳になりました。娘たちのためにもがんばりたいと思います。
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日本に着いてから、まず生活をするのに言葉は一番大きな壁です。日本人とちゃんと話ができるかどうか心配でした。明日は何をすればよいか自分で決められませんでした。
しかし、大和定住促進センターの皆さまの熱心なご指導のお陰で、日本語や生活習慣などが少しずつ分かるようになりました。主人の仕事も決まり、私もパートタイマーとして新しい人生を始めることができました。一人で買い物ができるようになったときは、とっても嬉しかったです。
日本で幸せな生活が20年過ぎました。しかし、私はあの時の嫌な思い出を忘れることはありませんでした。戦争はカンボジアを著しく破壊しました。私たちは愛する国と肉親から離れなければならなかったのも、私が愛する国を出なければならなかったのも、この戦争のせいです。もし、私が国を逃げていなかったら、殺された300万人と同じになっていたかもしれません。
日本は、私に新しい人生と希望を与えてくれました。私は人生をやり直すため、どんな嫌なことがあっても頑張りました。私の家族は望んでいた以上に幸せになりました。娘は日本人と結婚をして、新しい家族ができました。息子もそろそろ大学を卒業します。私は日本の国から模範難民として表彰されました。私の家族は本当に幸せです。
だから、これからの人生はカンボジア人のために使いたいと思います。カンボジア人も日本人と同じように幸せな人生を送ってほしいのです。カンボジアの子どもも日本の子どものように学校に行ってほしいのです。
最後になりましたが、日本の政府をはじめ、大和定住促進センターやNGOなどの私たちを支援してくださった日本の皆さまに感謝申し上げます。
ご清聴ありがとうございました。
「難民2世のアイデンティティ」
グエン ティ タン マイ(ベトナム)
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私の両親は、二人の姉と私を連れて、長さ13メートル、幅3メートルほどのボートに乗り、私の家族5人を含めた76人が祖国ベトナムを逃れました。1981年4月のことです。当時の私は生後100日あまりの赤ん坊でした。
その後3日程海上を漂い、日本の船に救助され、フィリピンの難民キャンプに私たちを下ろしてくれました。フィリピンの難民キャンプを経て日本に来たとき、私は2歳でした。
日本の教育しか受けていない私は、始めのころなんとか日本人に同化しようと努めました。日本の教育というのは調和を重んじるので、その方が日本での生活は楽だったからです。そうやって中学校、高校と思春期を迎えるようになり、自分の将来についていろいろ考えるようになりました。
これだけ姿が日本人に近くても、国籍を持たないということは、日本で生活をするにはさまざまな障害があります。具体的には公務員になれないとかです。夢を描いてもそういうことに気が付いたときに、一生懸命に日本人に同化して生きてきたのに、国籍がなければ社会から日本人として認められることがないということに気がつきました。そういうことに気がついて、私はようやく自分自身の生い立ちについて考えるようになりました。
私は自分が荷物なのか分からず、ようやく自分自身の生い立ちを見つめ直しました。そして、どうしてこれまで自分は、こんなに無知でいられたのだろうと思いました。また、私は自分が難民であるという生い立ちやベトナムという国、そして、そんな運命をもたらした両親を心のどこかで非難し、否定してきたことに気づきました。そのことに私は今でも罪の意識を持ち続けています。
現在、私は大学で国際社会学を学んでいて、その傍ら、自分自身の足元を見つめる努力をしています。
この半年の間に、父が生まれた地、母が生まれた地、自分が生まれた地、そして、日本に来る前に20ヵ月間いたフィリピンの難民キャンプを訪れました。祖国を旅して、両親を理解できた今では、私は生い立ちを自分の個性として、祖国と両親に感謝と愛情を素直に持つことができるようになりました。
難民という言葉は、その悲惨さを強調されがちです。確かに難民は社会的に立場が弱いですが、そのカテゴリーに当てはまる難民一人ひとりは、実に多様で、個々人に人生があって、歴史があって、家族があります。
そして、一人ひとりは家族や友人を愛して一生懸命に生きているのだということを皆さんに知っていただいて、難民の方をより身近に感じていただきたいと思います。
ありがとうございました。
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