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2006.4.1

「日本で暮らすカンボジア難民」講演概要

1.なぜ難民となったのか
カンボジアの内戦から逃れるため、自分の両親は子供の幸せのために国を出ることを決めた。タイの難民キャンプまでの道のりは、辛いものだった。道には、死体がたくさんあった。自分たちが持っているものを盗もうとする泥棒も沢山いた。カンボジア政府や警察、泥棒に見つからないように隠れながら逃げていた。
2.タイの難民キャンプでの生活
難民キャンプに入るには、とげのバリアを潜って入るしかなかった。父親は自分たちがとげに刺さらないように一生懸命、体を張って守ってくれた。タイ政府やタイ警察に見つかる前に難民キャンプに入らなければと焦る気持ちでいっぱいだった。見つかってしまえば、カンボジアに戻され殺されてしまう。食べ物はなく、自分たちで探さなければならなかった。食べ物を得るために、自分たちが持っているものと交換して分けてもらった。難民キャンプでの生活も安心できるものではなかった。いつタイ政府に見つかり国に連れ戻されてしまうのか不安だった。
3.日本に来ることになった経緯
自分たち家族は、UNHCRから許可が下りるまで約5年間、難民キャンプで生活した。自分たち家族は、日本へ行きたいと希望した。希望してから約半年待ち、日本政府から受け入れの許可が下りた。
4. 日本での生活
日本政府の人と一緒に飛行機に乗って日本に来た。そして、神奈川県大和市にあった大和難民定住促進センターに入所した。日本語、日本の習慣などを勉強し、3カ月後にはセンターを退所しなければならなかった。
(1) 小学校・中学校での生活
自分は小学校へ入学したが、言葉も分からず友達もできなかった。みんなとは違うという目で見られ、いつも一人だった。小学校では、取り出し授業というのがあった。取り出し授業では、みんなが同じ授業を受けている時間に、違う教室でボランティアの先生に日本語の勉強や授業で分からないところを教えてもらっていた。取り出し授業には、他にも同じ国の子が数人いたので、学校にいて唯一安心できる時間だった。 中学校でも取り出し授業をしようとの話があったが断った。みんなと同じ時間に同じ授業を受ければ、みんなの輪に入れてくれるかもしれないと思った。しかし、友達の輪にもなかなか入れず、輪の中に入れたと思うとすぐにまた輪から外されてしまうのでとても寂しかった。そんな時、自分はあるボランティアの先生と出会った。先生との出会いは、神奈川県の淵野辺駅にある学生会館である。学生会館には、大学生のお兄さんやお姉さんがボランティアで勉強や学校での悩みや困ったことなどの相談にのってくれた。学生会館に通うことで、仲間ができ、少しずつ自信がもてるようになった。学校でも少しずつではあるが、日本人の友達ができるようになった。
(2) 高校での生活
学生会館に通っていたかいもあって、高校にも無事に合格することができた。高校での生活は、楽しかったがショックなことがあった。それは、自分と同じ国の子がカンボジア人であることを隠して学校生活を送っていたことである。自分は同じ国の友だちから「あの子もカンボジア人だよ。」と聞き、うれしくなり、その子に「同じ国だったんだね。うれしいな。」と言った。そうしたら、その子は「何で知ってるの。みんなには言わないでね。知られたくないし、嫌だから。」と、とても悲しそうに言った。自分は返す言葉に詰まってしまった。本当にショックだった。「もっと自信を持ってよ。国が違っても関係ないよ。」と言いたかった。
(3) 専門学校での生活
高校を卒業し、自分は医療事務の資格を取得するため専門学校へ行った。就職活動では、外国籍ということで差別をされた。一度は就職をあきらめようと思ったこともあったが、支えてくれた家族や先生、友達に励まされ、もう一度頑張ろうと思い、病院を受けた。就職が決まったときはとてもうれしかった。
(4) 参加者へのメッセージ
自分は小さい時に日本に来たので言葉も覚え、人との出会いにも恵まれたので頑張ってくることができたが、言葉が通じないことで不安をいっばい抱え、困っている人がたくさんいる。周りに困っている外国籍の人がいたら何でもいいので優しい一言をかけてほしい。その−言が救いになると思う。大人が、子供たちにいろいろな国の人がいることを教えてあげてほしい。たくさん、外国籍の人と交流する場を作ってほしい。いろいろな国の子供が皆仲良く笑顔で楽しく生活できる国になればいいと思う。

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