第23回「定住インドシナ難民とのつどい」

第23回「定住インドシナ難民とのつどい」 2002年10月20日(日)、「第23回定住インドシナ難民とのつどい」が、品川区立総合区民会館(きゅりあん)にて行われました。この催しについては、大勢の方々のご協力をいただいております。
奥野誠亮理事長より表彰を受ける模範難民定住者
奥野誠亮理事長より表彰を受ける模範難民定住者
第一部式典は、品川区助役(区長代理)、品川区議会議長、外務省国際社会協力部長、法務省入国管理局審議官ほか、90名近くのご列席を頂いて行われました。雇用主・協力団体・個人を含めて10名に感謝状が、また、カンボジア3名・ラオス3名・ベトナム8名の合計14名に模範難民として表彰状が授与されました。雇用主代表として、神奈川県大和市の(株)エヌ・テック 代表取締役社長 秦野龍介氏より、平成10年に初めてベトナム人4名を採用、当初多少の戸惑いがあったが2〜3ヵ月経つにつれ、真面目で勤勉、さらに忍耐強い就業態度に大いに感心させられた。その後、その4名の紹介などにより雇用の輪が広がって、現在では33名の外国人就業者中18名がベトナム、カンボジアの方々であり、彼らの力と頑張りが会社の発展を支えているものと感謝している、との挨拶を頂きました。続いて協力者代表として兵庫県姫路市で活動中の「がんばろう日本語」代表 神村正氏より、難民の方々の日本語が上手になりたいという熱心な希望に対する私たちの本当にささやかなボランティア活動を今後も引き続き行い、輪を広げて難民の方々が日本社会の中で安心して暮らしていくためにお役に立てればうれしいと思っている。しかし、活動を行っていく上で、我々だけでは解決できない問題があり、その一つは、指導者の数が足りないが、なかなか指導者が得られないこと、もう一つは、日本語を学習する必要がある人が、生活に追われ、勉強に来なくなってしまう、又は、来られなくなってしまうという現実があるので、関係行政が彼らに勉強のできる環境を整えてあげてほしい、とのお願いもありました。次に、模範難民代表から、日本に来るまでの経緯、職場や地域社会の日本人との交流によって幸せな生活を送っていることへの感謝と、将来は日本で学んだことを母国のために役立てたいとの決意を聞かせていただき(詳細は次頁に紹介しています)、緊張の中にも和やかな雰囲気の内に第一部式典は無事終了しました。
カンボジアの民族舞踏と歌
カンボジアの民族舞踏と歌 「マッツ・トゥーン」 香水売りの女性と農夫の出会いから結婚までの物語
第二部のアトラクションは、品川女子学院の学生たちによる明るく躍動感あふれる吹奏楽の演奏・演技が、また、当財団奥野誠亮理事長の挨拶に続いて、WiZ(ウィズ)による華麗なイリュージョンに会場は、驚き、楽しみ、不思議な世界を満喫した様子でした。 次に、雰囲気をがらりと変えて、難民定住者の中からカンボジアの代表がアンコールワットの背景で優雅な民族舞踊と歌を、ラオスの代表からは王族等の身分の高い人に捧げられる民族舞踊をはじめ寸劇と歌を、ベトナムの代表は女性3名による太鼓の歌に続き、子供によるピアノ演奏や歌を披露しました。毎年いろいろな工夫を凝らし、アイディアを出し合って、日々忙しい中で精一杯練習をした成果を存分に発揮できたことと思います。 最後にインドシナ難民定住者の出演者全員が舞台に立ち、来年の再会を約束しました。 模範難民定住者として、どのような方が表彰されたのでしょう。各出身国の代表の挨拶をご紹介します。

国際協力フェスティバルに参加しました

地域社会との交流
国際協力フェスティバルに参加しました 難民事業本部では、国際協力フェスティバル(2002年10月5日、6日 於:東京都千代田区日比谷公園)、及び彩の国POWER FESTIVAL(2002年10月12日、13日 於:埼玉県さいたま市さいたまスーパーアリーナ)に参加しました。 国際協力フェスティバル
国際協力フェスティバルに参加
国際協力フェスティバルに参加
国際協力フェスティバルは国際協力に対する理解と関心を高め、国際協力推進に貢献することを目的に毎年開催されており、今年も200を超える国際機関、NGO等の団体が参加し、各団体の活動、関係国の食べ物等を紹介しました。 難民事業本部のブースではインドシナ三国の団体に協力していただき、難民理解講座の開催、民族衣装と民族音楽による出身国の文化紹介、さらにインドシナ難民クイズ等により、インドシナ難民定住者の紹介をしました。 ブース来場者は両日で200名を超え、来場者からは「1万人を越えるインドシナ難民が日本に定住していることを知らなかった」、「日本にいる難民の状況についてあまり知らず良い勉強になった」等の感想が多く寄せられました。 彩の国POWER FESTIVAL
彩の国POWER FESTIVALに参加
彩の国POWER FESTIVALに参加。茶色の服が援助物資の袋から作ったものです。
彩の国POWER FESTIVALは、埼玉県が進めている彩の国700万人突破記念事業のメインイベントとして開催されました。国際交流をはじめ、音楽、ダンス、歴史、文化、特産などさまざまな分野の展示、舞台での演奏・公演の催し物があり、多くの来場者の下、活気のあるフェスティバルでした。 難民事業本部の参加は今年で2年目になります。国際協力フェスティバル同様多くの方がブースに来場し、難民理解講座、インドシナ難民クイズなど当事業本部の企画を楽しみました。 難民理解講座では、難民定住者が自分の体験、日本での生活などの話をしましたが、参加者が興味深く話を聞いていたのが印象的でした。 また、ブースに展示していたコンゴ民主共和国のアンゴラ難民が援助物資の袋で作った服(写真参照)に多くの人が興味を示し、良くできているととても感心していました。

第23回「定住インドシナ難民とのつどい」

第23回「定住インドシナ難民とのつどい」

 2002年10月20日(日)、「第23回定住インドシナ難民とのつどい」が、品川区立総合区民会館(きゅりあん)にて行われました。この催しについては、大勢の方々のご協力をいただいております。

奥野誠亮理事長より表彰を受ける模範難民定住者
奥野誠亮理事長より表彰を受ける模範難民定住者
 第一部式典は、品川区助役(区長代理)、品川区議会議長、外務省国際社会協力部長、法務省入国管理局審議官ほか、90名近くのご列席を頂いて行われました。雇用主・協力団体・個人を含めて10名に感謝状が、また、カンボジア3名・ラオス3名・ベトナム8名の合計14名に模範難民として表彰状が授与されました。雇用主代表として、神奈川県大和市の(株)エヌ・テック 代表取締役社長 秦野龍介氏より、平成10年に初めてベトナム人4名を採用、当初多少の戸惑いがあったが2〜3ヵ月経つにつれ、真面目で勤勉、さらに忍耐強い就業態度に大いに感心させられた。その後、その4名の紹介などにより雇用の輪が広がって、現在では33名の外国人就業者中18名がベトナム、カンボジアの方々であり、彼らの力と頑張りが会社の発展を支えているものと感謝している、との挨拶を頂きました。続いて協力者代表として兵庫県姫路市で活動中の「がんばろう日本語」代表 神村正氏より、難民の方々の日本語が上手になりたいという熱心な希望に対する私たちの本当にささやかなボランティア活動を今後も引き続き行い、輪を広げて難民の方々が日本社会の中で安心して暮らしていくためにお役に立てればうれしいと思っている。しかし、活動を行っていく上で、我々だけでは解決できない問題があり、その一つは、指導者の数が足りないが、なかなか指導者が得られないこと。もう一つは、日本語を学習する必要がある人が、生活に追われ、勉強に来なくなってしまう、又は、来られなくなってしまうという現実があるので、関係行政が彼らに勉強のできる環境を整えてあげてほしい、とのお願いもありました。次に、模範難民代表から、日本に来るまでの経緯、職場や地域社会の日本人との交流によって幸せな生活を送っていることへの感謝と、将来は日本で学んだことを母国のために役立てたいとの決意を聞かせていただき(詳細は次頁に紹介しています)、緊張の中にも和やかな雰囲気の内に第一部式典は無事終了しました。

カンボジアの民族舞踏と歌
カンボジアの民族舞踏と歌
「マッツ・トゥーン」
香水売りの女性と農夫の出会いから結婚までの物語
 第二部のアトラクションは、品川女子学院の学生たちによる明るく躍動感あふれる吹奏楽の演奏・演技が、また、当財団奥野誠亮理事長の挨拶に続いて、WiZ(ウィズ)による華麗なイリュージョンに会場は、驚き、楽しみ、不思議な世界を満喫した様子でした。
 次に、雰囲気をがらりと変えて、難民定住者の中からカンボジアの代表がアンコールワットの背景で優雅な民族舞踊と歌を、ラオスの代表からは王族等の身分の高い人に捧げられる民族舞踊をはじめ寸劇と歌を、ベトナムの代表は女性3名による太鼓の歌に続き、子供によるピアノ演奏や歌を披露しました。毎年いろいろな工夫を凝らし、アイディアを出し合って、日々忙しい中で精一杯練習をした成果を存分に発揮できたことと思います。
 最後にインドシナ難民定住者の出演者全員が舞台に立ち、来年の再会を約束しました。

 模範難民定住者として、どのような方が表彰されたのでしょう。各出身国の代表の挨拶をご紹介します。

「支援者の声 No.15」微笑との出会い

「支援者の声 No.15」微笑との出会い 兵庫県にはラオス難民定住者約80人とその家族が暮らしています。ラオス難民定住者の生活相談や、日本語学習の支援に関わられている乾美紀さんは、「在日ラオス系住民の定住と教育に関する研究」、「アメリカに定住するモン族(ラオス)難民の異文化適応に関する定性調査」などについても研究されています。長年のラオスと関わりについて、お話を伺いました。
ラオスの人たちとの出会いを思い出すとちょうど10年前になる。当時日本語教師として働いていたアメリカ・ウィスコンシン州の高校にたくさんのラオス系難民の学生がいた。彼らは、命からがら辿り着いた多民族社会アメリカで、ラオスの文化を静かに守っていた。アジアの文化を共有する私にだけは、ラオスの生活、食事、習慣、言葉などを笑顔でこっそり教えてくれた。その控えめながら強い心にたちまちとりこになり、私は日本語よりも英語を教えるようになった。それが、彼らにとっての一番の生活手段だったからである。 日本に帰っても急にラオスの味が恋しくなった。神戸の近くにもラオスの人たちが住んでいると聞いて、思い切って姫路の「ラオスの家」を訪ねてみた。残念ながら、畑の中にあったその家は今はもうなくなってしまったが、毎週日曜日になるとラオスの方々が集まる様子は、まるで「小さなラオス」そのものであった。 そこを訪ねるたびに、ラオス語が下手な私を、上手な日本語で迎えてくれた。彼らの微笑みには不思議な魅力が溢れていた。「ラオスの家」ではたくさんの料理に舌鼓を打ち、伝統的なラオスの踊りを教わった。 私はますますラオスのとりこになり、いつしかラオスを行き来するようになった。 ラオスでいつも私を歓迎してくれるのは、姫路やアメリカに住むラオスの方々の親戚だ。彼らは、いつも懲りずに笑顔で私をもてなしてくれる。そこはもう、「小さなラオス」ではなく、ラオスそのものである。本場の料理に賑やかな音楽、風がとおる水田、静かに流れるメコン。そして、ラオス語しか通じない世界。いつも身振り手振りで気持ちを通わせた。日本で生まれ育った私にとってラオスの環境は厳しく、病気を患ったこともしばしば。しかしそんな時でも、ずっと笑顔で支えてくれた。彼らの笑顔に何度助けられたことだろうか。 国境を越えて家族も分散されたという苦難の歴史を持つにもかかわらず、その苦労を全く感じさせない笑顔。なぜそんな笑顔を見せることができるのか、いつも不思議に思い、頭の下がる気持ちでいた。私は今もっとラオスという国について理解したいと思う。彼らがとおり過ぎたさまざまな経験を共有することはできないが、今後ラオスの人たちと共に過ごす時間をもっと持てたらそれが幸いである。 「かんさいレポート 2002年秋の号」より転載