セミナー「わたしたちの難民問題」(2003年11月11日)
難民事業本部関西支部では2003年11月に「わたしたちの難民問題」を神戸クリスタルタワーで神戸YMCAと共催しました。追加の緊急報告も含めて全6回のセミナーに計255名にご参加いただき、ビルマ、ラオス、ベトナム、アンゴラ、パレスチナの難民についてNGOや国連のスタッフ、ジャーナリストとして現地を訪れた講師から、難民の暮らしや支援活動についてのレクチャーを聴きました。
ここでは、安井清子さん講演の「ラオス難民〜難民キャンプからアメリカへ〜」の概要を紹介します。
「ラオス難民〜難民キャンプからアメリカへ〜」 安井清子さん(東京外国語大学非常勤講師)
私はインドシナ戦争後の混乱が落ち着きはじめていた1985年、日本のNGO「シャンティ国際ボランティア会(SVA)」の職員として、タイとラオスの国境にあるバンビナイ難民キャンプに派遣され、子ども図書館活動を担当しました。難民キャンプにはラオス語を教える学校がありました。SVAは、学校で使う教科書を印刷するために印刷所を運営しており、その傍らに図書館を作ることにしたのです。私はそこで、ラオスから国境を越えタイに逃れて難民となったモン族の子どもたちと出会いました。
モン族とは
モン族とは中国では苗族といわれており、中国の清朝に弾圧され、中国南部の山地から、山づたいに、19世紀ごろからインドシナの国々へも移り住むようになったといわれています。東南アジアのラオス、ベトナム、タイ、そして、中国南部などの山岳地帯に住み、ラオスには現在約30万人がいますが、戦争中に亡くなったり、難民となって海外に流出した数も同じくらいではないでしょうか。
1960年代になりベトナム戦争がラオスに飛び火すると、アメリカはラオス王国軍と戦う共産ゲリラのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)とラオス領内で活動する北ベトナム軍に対抗する勢力を養成しようと画策し、目をつけたのがラオス北部の山岳地帯に住んでいた数十万人のモン族でした。
アメリカ中央情報局は彼らに物資を援助し、ラオス王国軍のヴァンパオ将軍の下に配属し軍事訓練を行うなどして前線で戦わせました。モン族の男性が反共側兵士になるとその家族(女性や子ども)も反共側の村に移住していき、兵士を出さない村は共産側だと見なされて攻撃されました。共産側についた人々は、爆撃時は森や洞窟の中に避難しながらも、男性は戦場へと出かけ、女性や子どもは焼畑で陸稲やトウモロコシを作り自給自足の生活を送りました。
こうしてモン族はアメリカが支援する反共側と北ベトナムが支援する共産側に分かれて戦い、モン族が多く住む北部の山岳地帯が戦場となりました。
バンビナイ難民キャンプ
1975年に終戦。パテト・ラオが勝って、社会主義国家になりました。アメリカについた反共側のモン族の多くは、迫害をのがれ国境のメコン川を越えてタイ側に逃げこみ、難民キャンプが設置されました。
難民キャンプでは食糧(水・米、肉、野菜など)や燃料が配給されます。難民は経済活動や生産活動(農業など)をしてはなりませんでした。NGOで働くことは認められていましたが、現物支給でお金はもらえません。
私たちはそのような難民キャンプ内に子ども対象の図書館活動をはじめました。モン族はもともと文字を持たず、本もありません。そこで絵本を日本から持って行き、子どもたちに片言のモン語を使って見せました。子どもたちは初めて見る絵本に興味を持ち大変喜びましたが、1年も経つと同じ絵本ばかりではさすがに活動は難しくなりました。
ちょうどその頃、本来はいけないのですが、キャンプ内に泊まったことがありました。夜、父親が子どもたちを集めてモン族に古くから伝わる民話を話すのを見てモン族に民話があることを初めて知り、民話をカセットテープに録音していきました。
今はモン族にもアルファベットで表記する文字があります。そこでモン族の若い人々がそのテープを聴いて文字化していきました。また、子どもたちが中心となって、モンの女性なら誰でも出来る得意な刺繍で、絵本を作ることもはじめました。
それまでは海外から持ち込んだ絵本ばかりを見せていたのですが、こうして、モン族の子どもたちや若い人たちは、自分たちのお話を自分たちの伝統的文化を使って美しい本にすることができたのです。援助活動するとは、与えることではなくて、その人たちの持つすばらしいものを引き出して作り出せてこそ、良い活動ができるのだとはじめて分かりました。
アメリカに定住したモン族の状況
タイでは難民の国内定住を認めないという態度をとっていたため、難民は本国へ帰還するか、第三国に行くかを決めなければなりませんでした。1992年には難民キャンプは閉鎖され、約3万人がラオスに帰国していきました。第三国であるアメリカなどへは1975年から約10万人が定住していきました。特にカリフォルニアに定住する人が多かったです。
アメリカに定住したモン族の多くは生活保護を受けていました。若い人の中には英語を話し、職に就ける人もいましたが、年をとった人たちは職に就けず、車も買えないので外にも出ず、家の中に閉じこもる生活を送るしかありませんでした。
そのような状況の中で家庭内では親が母国語、子どもが英語しか話せないために十分なコミュニケーションがとれないというジェネレーションギャップが生じています。そんな家庭の子どもたちは自分の親を尊敬する気持ちを持てなくなり非行に走るケースもあります。モン族の若者に自殺者が多いのもそのようなことが原因となっているのかもしれません。難民問題は難民キャンプが閉鎖されたからといって終わるものではないのです。
難民が多く住む地域では、その難民の母国語を話せる人が学校で補助教員として雇われることがあり、少数ですがそのような職に就ける難民もいます。モン語のドラマなどのビデオを作成して販売するビジネスを始める人もいます。難民キャンプでやったように、自分が覚えているモン族の民話を刺繍で表現して、刺繍絵本の図書館を作りたいという夢を持つ若者もいますが、彼は毎日の工場での仕事に追われて、実際の生活は絵本作りなどからはかけ離れてしまっているそうです。いつか、そんな夢を応援できたらいいな、と思っていますが、これも夢です。
ラオスに帰還したモン族の状況
一方、ラオスに帰還したモン族の人々の生活も決して安定しているとはいえません。
帰還する時には、UNHCRが水田のある帰還地を準備することになっていましたが、水田が必ずしも十分には確保できていない状況で帰還となった人々も多くいます。未だに農地とすべき土地を手に入れることができず、親戚に土地を借りて耕したりで、十分な収穫を得ることができていない人々も多いのです。やはり、一度土地を離れ基盤をなくし、一から始めるということは、なかなか大変です。
アメリカに行ったモン族は、「アメリカの生活は心が苦しい」と故郷ラオスを恋しがり、里帰りのために生活保護費をためてまで、ラオスを訪ねる人もいます。また、ラオスに帰還した人には、アメリカから送られてくる「自家用車の前での記念撮影」の写真を見て、アメリカに移住しておけば良かったと後悔している人もいます。いずれにしても、戦争が起こり難民となって民族が分かれたことで、モン族の運命は大きく分かれることとなったのです。
セミナー「わたしたちの難民問題」(2003年11月26日)
難民事業本部関西支部では2003年11月に「わたしたちの難民問題」を神戸クリスタルタワーで神戸YMCAと共催しました。追加の緊急報告も含めて全6回のセミナーに計255名にご参加いただき、ビルマ、ラオス、ベトナム、アンゴラ、パレスチナの難民についてNGOや国連のスタッフ、ジャーナリストとして現地を訪れた講師から、難民の暮らしや支援活動についてのレクチャーを聴きました。
ここでは、林まゆみさん講演の「アンゴラ難民」の概要を紹介します。
「アンゴラ難民」 林まゆみさん(元「難民を助ける会」メヘバ事務所駐在員)
私は日本のNGO「難民を助ける会」の職員として、2001年12月から2003年7月ザンビアのメヘバ難民定住地でアンゴラ難民への支援を行っていました。
1.メヘバ難民定住地
ザンビアは内陸国で首都はルサカです。面積は日本の約2倍で人口は約1,010万人です。ザンビアにいる難民は約25万人で、そのうちアンゴラ難民は約20万人です。2004年までに約20,000人を帰還させるというUNHCRの計画が立てられています。難民の定住地はザンビアには4つあり、貧しいながらも支援が比較的行き届いています。
メヘバ難民定住地はザンビアの北西部州にある1番大きい定住地です。1971年に設置され、面積は約656平方キロメートルで、約48,000人います。その内9割の約42,000人がアンゴラ難民です。
クリニックは定住地内に6ヵ所、学校は9年生制の小学校が6ヵ所と、3年生制の高校が1ヵ所あります。マーケットは8つに分かれたゾーンに1つずつあります。
2.難民を助ける会の活動内容
難民を助ける会は、1984年にメヘバ難民定住地に現地事務所を設立しました。最初は給水活動から始まり、農業、保健、教育などの分野に活動が広がりました。現在は、アンゴラ難民帰還支援のための地雷回避教育を実施しています。
まず2003年6月まで実施した給水プロジェクトでは、以前は井戸の掘削をしていましたが、近年は井戸の改良やメンテナンスを行っていました。例えば、難民による手堀りの井戸には、ほこりやゴミ、小動物の死骸等が入ってしまい、衛生上よくないので、コンクリートのふたで被い、汲み上げようのハンドポンプを取り付ける作業を行いました。
2002年12月まで実施した農業プロジェクトは、栄養不良児対策として、ビタミン不足を解消するための野菜栽培の指導をしていました。難民は、定住地に来て2年間は食料配給を受けることができますが、同時にくわなどの農機具と土地を供給してもらい、2年後に自給自足ができるように準備をします。
同年12月まで実施した保健プロジェクトも、農業プロジェクトと連携して、栄養不良児対策を目的としていました。穀物の一種であるメイズだけを子ども達に与える家庭が多く栄養バランスが悪いのです。このプロジェクトで栽培する大豆は、彼らにとって馴染みの薄い食材であるため、調理指導を合わせて行っています。また、マラリアで亡くなる子どもが多いにもかかわらず、原因が蚊であることを知らない人が多いため、予防についてディスカッションを交えながら教えています。
2003年5月まで実施した教育プロジェクトでは、コミュニティスクールを作り定員オーバーや費用負担をできないために小学校に通えない子どもたちを受け入れていました。同年11月からは、難民のニーズに合わせ帰還を支援するため、大人向けのポルトガル語教室を運営しました。ポルトガル語はアンゴラの公用語です。
3.アンゴラ難民の帰還
アンゴラは1975年の独立後、27年間にわたり内戦が続きました。2002年2月に反政府勢力のリーダーであるサビンビが暗殺された時点では、メヘバのアンゴラ難民は母国帰還の実現に対して懐疑的でした。しかし、2003年1月の意向調査では64%の者が2003年に帰還することを、34%の者が2004年に帰還することを希望しました。
2003年4月に難民代表によるアンゴラ視察が行われ、同年5月に帰還登録が開始されるとともに出発センターや休憩所などの建設が始まりました。帰還開始日前日の7月10日、難民たちは住居付近にある集合場所に集まり、本人確認や健康診断を受けた後、トラックで出発センターへ移動しました。出発センターでは荷物を預け入れたり健康診断を受けると同時にNGOによる講習を受けます。JRS(イエズス会難民サービス)により平和教育が、YMCAによりエイズ教育が行われており、難民を助ける会では地雷回避教育を行っています。
UNHCRが中心となって運営する帰還民の一時収容所(2,000名収容)がアンゴラのカゾンボにあり、帰還民はここで登録と健康診断の後、2ヵ月分の食料と生活用品及び建設キットを受取ります。また、ここでも地雷回避教育やエイズ教育、平和教育を受けます。一時収容所から450m離れたところは地雷源です。
アンゴラは世界有数の地雷埋没国で、1,350万の人口に対して600万個〜1,500万個の地雷が埋まっているといわれています。旧共産圏の地雷が多いのが特徴です。地雷被害者数は報告されているだけで2000年840人、2001年660人で、これは氷山の一角にすぎません。全ての地雷を除去するには少なくとも十数年かかると考えられ、人々は地雷と共存することを余儀なくされているのです。
4.難民を助ける会による地雷回避教育
地雷回避教育とは、地雷のある地域で生活していく上で、地雷事故に遭わないためにはどうしたらよいか、何に注意したらよいかを伝えるための教育です。対象年齢によって、布製ポスター、写真、迷路やルーレットなどのゲーム、人形劇を使ったり、パンフレットを配布したりする方法で行っています。村、学校、地雷情報センター、帰還登録センター、出発センターにおいて一般難民向けに教育を行うと共に、帰還バスやトラックの運転手や援助団体職員に対しても教育を行っています。
地雷回避教育の前と後で難民の子どもたちに地雷回避についての調査をしたところ、教育を受ける前には道に落ちている物(プラスチックの容器や針金など)を見つけると拾ってしまうと答えた子どもが99%であったのに対して、教育後は19%に減っていました。また、地雷があることを知らせる目印 (標識)が分かる子どもは教育前の3%から79%に増えていました。