インドシナ難民に関する国際社会の動き(年表)(1975-2006)

●インドシナ難民に関する国際社会の動き(年表)
世界の動き 日本の動き
1975年 4月カンボジアのプノンペン陥落、ポル・ポト政権の樹立 4月南ベトナムのサイゴン陥落 12月ラオス人民民主共和国成立 5月日本に初めてボート・ピープル上陸、民間の一時滞在施設に滞在
1976年 1月民主カンボジア成立、大量の難民発生 7月ベトナム社会主義共和国成立
1978年 4月閣議了解により日本に一時滞在するベトナム難民の定住許可が認められる
1979年 1月ポル・ポト政権が崩壊し、カンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が成立 2月中越戦争、大量の難民発生 5月UNHCR、ベトナム政府間で合法出国計画(ODP)実施に関する覚書締結 7月インドシナ難民問題国際会議の開催 4月閣議了解により500人の定住枠設定、海外の難民キャンプに滞在するインドシナ難民を受け入れる 11月政府の委託を受け、アジア福祉教育財団に難民事業本部が発足 12月姫路定住促進センターを開設(1996.3閉所)
1980年 2月大和定住促進センターを開設(1998.3閉所) 6月閣議了解により定住枠を500人から1,000人に拡大、ベトナムからの家族呼寄せの許可
1981年 4月閣議了解により定住枠を1,000人から3,000人に拡大、母国の政変以前から日本に住んでいる留学生などの定住が認められる 6月難民条約への加入
1982年 6月民主カンボジア連合政権樹立 1月難民条約発効、「出入国管理及び難民認 定法」施行 2月大村難民一時レセプションセンターを開設(1995.3閉所)
1983年 4月国際救援センターを開設 7月閣議了解により定住枠を3,000人から5,000人に拡大
1985年 7月閣議了解により定住枠を5,000人から10,000人に拡大
1989年 6月インドシナ難民国際会議の開催 包括的行動計画(CPA)の開始 9月閣議了解によりボート・ピープルのスクリーニング(難民資格審査認定制度)の実施
1991年 6月タイ政府、ラオス政府及びUNHCRの三者会合の開催により、タイに滞留するラオス難民帰還計画が合意 10月パリ和平協定成立、カンボジア難民の帰還計画を実施
1993年 4月UNHCRの支援するカンボジア難民・避難民の本国への帰還の終了
1994年 2月インドシナ難民国際会議第5回運営委員会の開催 3月閣議了解によりボート・ピープルのスクリーニングの廃止 12月閣議了解により10,000人であった定住枠の廃止
1996年 3月インドシナ難民国際会議第7回運営委員の開催 CPAの終了 3月姫路定住促進センターを閉所 6月関西支部を開設 6月インドシナ難民定住者10,000人突破
1998年 3月大和定住促進センターを閉所
1999年 12月 タイ、バンナポキャンプのラオス難民帰還終了
2000年 5月 香港、望后石難民センターの閉鎖  
2001年 6月 国連「難民の日」を定める  
2002年   8月 閣議了解により、条約難民に対して定住支援策の措置(03年4月から開始)
2003年   3月 閣議了解により、04年3月末での家族呼寄せ(ODP)の申請受付終了 7月 難民対策連絡調整会議により国際救援センター閉所決定
2004年   7月 難民対策連絡調整会議により難民認定申請者への支援について決定
2006年   3月 国際救援センター閉所

コミュニティー活動支援:ベトナムコミュニティー

難民定住者のコミュニティー活動を支援しています

 難民事業本部では、難民定住者のコミュニティー団体が実施する情報交換や地域社会との交流活動等に対して助成を行っています。これまで支援しているインドシナ難民のコミュニティーに加えて、2005年度からは条約難民のコミュニティーに対する支援も始まりました。ここでは、これら支援の一部をご紹介します。

ベトナムコミュニティー

浜松ベトナム語教室 ~静岡県ベトナム人協会の新たな活動~

 静岡県ベトナム人協会では、今年から公営団地の集会所を借りて毎週土曜日にベトナム語教室を行っています。この教室には小学生を中心に36人が登録し、常に20人以上の子どもたちが楽しく参加しています。単にベトナム語を学ぶだけではなくコミュニティーの様々な世代の交流にもつながっています。

コミュニティーの難民2世の子どもたちは日本で生まれ育っているため、ベトナム語を聞いて理解はできても、読み書きや会話をうまくできないことが多いようです。このため、親子の間でコミュニケーションがとれないといった問題がおこります。また、子どもたちは小学校に通うようになると自分の家庭の生活様式や言葉が日本人と異なることに気づき、アイデンティティーの問題にぶつかることも多くあるようです。

難民相互の交流や援助を目的とした難民コミュニティーでは、何か困ったことがあれば相互に協力や相談し問題の解決に取り組んでいる他、母国の伝統行事や日本語学習会などの活動を活発に行っています。

なお、この活動には難民事業本部も助成費等で支援しています。

 

国際救援センター閉所式

国際救援センター閉所式

2006年3月30日(木)、東京都品川区にある国際救援センターにおいて、100名余の参列者を迎えて閉所式を開催しました。

同センターは1983年4月に日本政府が開設し、委託を受けた財団法人アジア福祉教育財団が長期滞在するボート・ピープルの施設として管理運営してきました。以来23年にわたり、6,242人のインドシナ難民等を受け入れ、日本定住のための各種教育を実施してきましたが、ここに長い歴史の幕が閉じられることになりました。5月からは、都内新宿区に「RHQ支援センター」を開設し、主に条約難民への定住支援を継続します。

第一部の閉所式典では、主催者の当財団奥野誠亮理事長からの挨拶で、設立当初のエピソードなどや、国際救援センターの開設や運営にあたった関係者各位のご支援・ご協力に対して謝意を述べました。

次に4人の来賓の方々からご挨拶がありました。難民に関係する省庁間の連絡や調整を行っている内閣官房副長官補室からは坂井孝行内閣参事官の代理として北村晃彦参事官補佐が、定住支援を受けた6,242人のインドシナ難民及び条約難民の方々の日本社会への定着は概ね成功と考えており、4月からは、条約難民を対象とした新たな定住支援を行い、難民の方々が我が国の人々と隣人として共に歩むことの一助となることを祈念すると述べられました。当財団の所管官庁の外務省大臣官房国際社会協力部からは神余隆博部長が、我が国に直接関係する難民問題は、インドシナ難民への取り組みが最初であったこと、国際救援センターの近隣住民の方々にはセンター入所者の方々のために交流会を催していただいたり、公立の小中学校へのセンターの子どもたちの受け入れに理解を示して頂くなど様々な面で温かいご支援を賜り、本事業はまさに、政府、民間がそれぞれの立場で協力し合いながら成し遂げた国際協力事業であったこと、同センターで培われた経験や、地域社会、更には日本国内に広がった難民の方々、および異文化への理解の大きな輪は、我が国が今後も国際社会に貢献していく上で大きな資産となり、これを引き継ぎ、平成18年度からの新たな施設を拠点として行われる定住支援事業が充実することを期待すると述べられました。同センターの地元で入所者の健康管理、学校教育、諸手続きや、地域の方々に対する理解を深めるなど、センターの運営管理にひとかたならぬご協力を頂いた品川区の関係者の皆様に感謝申し上げます。

国際救援センター閉所式

日本語教育相談員レポート

日本語教育相談員レポート

難民事業本部日本語教育相談員は、条約難民対象の定住支援施設「RHQ支援センター」における生活ガイダンスの講座のひとつ「教育制度(小・中・高校、大学、専門学校)・奨学金等」において日本の教育制度や進路についての情報提供を行っています。6月23日(火)、平成21年度前期昼間コース入所者(7期生)を対象に行った同講座では、「日本の学校教育制度および職業教育制度について」、「教育にかかる基本的費用および奨学金制度について」、「センター退所後の日本語学習継続について」を大きなテーマとして、日本の義務教育制度、高校進学のためのスケジュールと費用、専門学校や職業訓練校と取得可能資格、日本語教室と日本語学校、大学進学に必要な日本語能力、日本語能力試験などについて通訳を介して説明をしました。RHQ支援センターに入所する条約難民とその家族の方々は、母国で高い学歴を持つ方が多く、子どもの教育にも、また自分自身のステップアップのための学習にも強い関心を持っています。今期の受講者は、20歳代から50歳代までの幅広い年齢層ですが、全員が自分自身の問題と捉え、熱心に耳を傾けていました。 「子どもを公立高校に行かせたいけれど、公立高校は優秀な成績でなければ入学できませんか」、「私立高校の学費はどのぐらいかかりますか」、「大学に行きたいけれど、どのぐらい日本語ができれば行けますか」、「○○の資格を取るにはいくらかかりますか」、「母国で取った資格を生かして、日本でも同じ仕事に就きたいけれど、どうすれば日本で同じ資格が取れますか」、「ビジネス日本語能力試験でいい成績をおさめれば、正社員として雇ってもらえますか」、「家の近くにある日本語ボランティア教室を教えてください」など、受講者からは多岐に渡る質問が寄せられました。また、ほぼ全員がRHQ支援センター退所後も学習を続けることに意欲を見せていました。「子どもにはできるだけいい教育を受けさせたい」、そのためにも「自分自身がRHQ支援センター退所後も学習を続けて、経済的に安定した生活を送りたい」という切実な思いが伝わってきます。 日本語学校や大学進学、資格取得などそれぞれの目標を目指して、センター退所後も日本で教育を受ける上で、大きな壁となるのが経済力の問題です。日本語教育相談員は必要に応じて奨学金の情報提供を行っていますが、種類や条件の合うものがあまりなく、退所後の教育には経済的な面でかなりの困難を伴うのが現状です。また、難民の中には日本語能力が不十分なことにより、仕事の選択肢が限られてしまう例が多く見受けられます。日本語学習を続けることは、就業の面からも大変重要です。そのため、働きながら日本語を勉強したいと希望する者には、地域の日本語ボランティア教室を紹介し、週に数回、日本語を学習する機会を確保できるよう支援しています。 家族のために働きながら日本語を勉強する人、家族の協力を得て進学を目指す人など、退所後の学習環境はさまざまになりますが、今後は個別面談を行いながら、それぞれに合った形で学習が続けられるように支援していきたいと思います。

国際救援センター95期生の総合修了式

国際救援センター95期生の総合修了式

 2006年3月20日(月)に国際救援センター(以下救援センター)の総合修了式が行われました。

修了式の様子

 山岸救援センター所長が、「これからは判断力、行動力を発揮しなければ前には進めません。おそらく大変厳しい道のりが続くでしょうが、アイデンティティーに誇りを持ち、また日本での生活に希望を持って頑張ってください」と話をすると、修了生は懸命に聞き入っていました。

国際救援センターでの様子

1.健康相談

朝の健康相談室
朝の健康相談室
国際救援センターには、入所者の健康管理をするための健康相談室があります。ここには2名の看護師が勤務しています。 2003年5月現在、入所者は7歳から85歳までの老若男女約80名がおり、午前9時30分から午後3時40分まで、日本語の授業を集中的に受けています。 相談室での健康相談・診察は、原則として緊急時を除き授業時間外としているため、授業開始までの9時から9時30分までの時間帯に相談者が集中します。 相談室では軽いけがなどの応急処置から、頭痛、腹痛、風邪、虫歯などの対応に加え、日々の入所者の健康管理指導、通院の介助を行っています。

2.定期診察・指導

相談室へは、医師が月2回、国立国際医療センターから派遣され、診察、薬剤処方、検査の指示、病院への紹介などを行っています。月2回のみの診察であるため、医師の勤務日には相談者が1日50名にも上ります。 入所者の健康状態を把握するため、入所期間中に一度、胸部レントゲン撮影などを含む健康診断、歯科検診、皮膚科検診を実施しています。また、健康管理についての講義や歯磨きの指導なども行っています。

3.特別指導

入所者のうち20歳以下の女性を対象とした健康講座を行っています。これは国によっては生理や避妊など生理的・性的な問題についてタブー視する傾向がみられることから、自分の体について親や医療従事者に気軽に相談できるようにすることを目的としています。

4.傾向と対応

入所者には高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満などの生活習慣病、また、虫歯、寄生虫保持者などもいます。生活習慣病が増加しているのは最近の入所者の高齢化傾向と関連しています。 相談者の中には病気についての基礎的な知識が不足している場合があります。例えば、腹痛があっても、その原因が風邪による消化不良なのか、便秘なのか、食べ過ぎによるものなのか、本人では判断がつかないことがあります。また、薬を飲むことが体にとって悪いと思う人もいれば、規定量より多く飲めば早く効くと思い込んでいる人もいます。寄生虫については、完全駆虫をし、虫歯は緊急治療の他は、悪化を防ぐ指導をしています。 相談者はただ症状のみを述べるため処方の判断がなかなかつきません。相談室では原因を特定するために、時間をかけ、さまざまな角度から、あらゆる可能性を探りつつ対処しています。

5.定住のための指導

入所期間中はもとより、入所者がセンター退所後も健康な生活を送れるように定住後の生活上の留意点、例えば、薬の飲み方、栄養の摂取、また、応急処置等の指導を行っています。

「私の大切に思っていること」

「私の大切に思っていること」
R・S

シャラレさん
7年前に主人と一緒に日本にまいりました。母国では大学で歯科技工士の勉強をしていました。日本に来た後で子どもが生まれたので、今の家族は3人です。
今日の話は、私が大切に思っていることです。
どうして、人々は自分の住んでいるところと、自分の生まれた所を離れて新しい生活を探すのでしょうか。本当にいろいろ理由がありますが、でも皆ひとつの同じ理由になると思います。皆、自由になりたいのです。
だから、新しい国を選びました。皆さまよくご存じだと思いますが、新しい生活と新しい文化と違う規則を分からなければたくさん失敗をすることがあるので、いつも困ります。
私は、日本に来た後で、たくさん問題がありました。例えば、言葉が分からなかったし、日本人の考えることも知らなかったし、時々失敗もありました。日本語が分からなかったので、失敗した理由は分かりませんでした。時々私の日本語はおかしくて、皆が笑ったので、とてもはずかしかったです。
仕事でいろいろ問題もありました。日本に来たときは本当に子どもみたいで、いろいろ覚えなければなりませんでした。でも、いつも自信をもってあきらめませんでした。それで、生活を楽にするために何をしたらよいか、本当に大切なことは何かを考えました。それに答えをみつけました。
私に一番大切なことは友達です。友達をみつけるために、ゆっくりゆっくり自分にいいきかせました。皆を招待して、家でお茶を飲みながらいろいろ話しました。日本の生活や日本人の考えることや日本語などについて、友達が教えてくれました。
今、近所の人たちと皆友達になり、私を一人の人として分かってくれました。顔かたちは、違うけれど、人として皆と同じように心があります。
友達をみつけた後で、私の生活も変わりました。寂しくなくなり、失敗も少なくなり、日本の生活も分かるようになりました。
日本に来てから、たくさん経験しました。もっと、私のことを知ってもらいたいし、お互い理解したいです。これからも、よろしくお願いします。

「ラオス人の私」
ゴー ピッサマイ(ラオス)

ピッサマイさん
私はラオス人のゴー ピッサマイといいます。
私が9歳のころ、ラオスの国は自由のない国に変わりました。私の家族は、国境のメコン川をタイに逃げて、難民キャンプにいました。私はタイのキャンプでは、ラオス語とタイ語は似ているのでタイ語でも話すようになりました。そして、16歳のときに、キャンプにいたカンボジア人と結婚をしました。私たち夫婦は、身振り手振りで話すことも多かったです。夫の家族が日本にいたので、私たち夫婦は、少し早く日本に来ました。大和定住促進センターで日本語などの勉強をして、仕事や住むところを見つけてもらい働きました。夫婦の会話は、タイ語、日本語、いらいらするときは相手に分からなくても、それぞれ自分の国の言葉です。
やがて、私の両親や兄弟も日本に来ました。姫路定住促進センターを出た後は、神奈川県にみんな住みました。両親たちは、日本での生活も浅く、日本語が分からないので、私は仕事を休んで両親の病院に付添ったり大変なころもありました。
私には、娘が二人います。日本で生まれた娘たちは、日本語については安心です。そこで小さいときから娘にはラオス語で話します。毎週土曜日にはラオス語教室にも通わせています。また、ラオスの伝統文化も大切です。いろいろな行事のたびに、私はラオスの踊りを踊ります。娘にもラオスの踊りを教えます。
ラオスの文化を守り、子どもたちに伝えたい気持ちは、ラオス人みんなの思いです。長いことお金をみんなで貯めて、やっと2003年6月に在日本ラオス文化センターができました。お坊さんもいます。私は毎日夕方の6時から朝までお弁当を作る工場で働いています。毎日深夜の仕事ですから疲れていますが、休みにはお坊さんの世話をしに娘を連れて文化センターに行きます。
ラオス人にとって文化センターは憩いの場所です。私たちにとってお坊さんは大切です。いつもセンターにお坊さんがいてくれるというだけで、安心して仕事も辛いことも我慢できます。でも、お坊さんは日本に長くは住めません。ビザは短いので、お坊さんが行ったり来たりする交通費も大変です。
私はラオスが好きです。娘たちとのラオスへの里帰りを楽しみに働いています。娘たちは私がタイのキャンプにいたころの歳になりました。娘たちのためにもがんばりたいと思います。

「私の希望」
ユーエン ワンナー(カンボジア)

ワンナーさん
皆さま、こんにちは。ユーエン ワンナーです。私は、家族と一緒に1984年にカンボジアから日本に来ました。私たちは、残酷な戦争から逃げてきたのです。
日本に着いてから、まず生活をするのに言葉は一番大きな壁です。日本人とちゃんと話ができるかどうか心配でした。明日は何をすればよいか自分で決められませんでした。
しかし、大和定住促進センターの皆さまの熱心なご指導のお陰で、日本語や生活習慣などが少しずつ分かるようになりました。主人の仕事も決まり、私もパートタイマーとして新しい人生を始めることができました。一人で買い物ができるようになったときは、とっても嬉しかったです。
日本で幸せな生活が20年過ぎました。しかし、私はあの時の嫌な思い出を忘れることはありませんでした。戦争はカンボジアを著しく破壊しました。私たちは愛する国と肉親から離れなければならなかったのも、私が愛する国を出なければならなかったのも、この戦争のせいです。もし、私が国を逃げていなかったら、殺された300万人と同じになっていたかもしれません。
日本は、私に新しい人生と希望を与えてくれました。私は人生をやり直すため、どんな嫌なことがあっても頑張りました。私の家族は望んでいた以上に幸せになりました。娘は日本人と結婚をして、新しい家族ができました。息子もそろそろ大学を卒業します。私は日本の国から模範難民として表彰されました。私の家族は本当に幸せです。
だから、これからの人生はカンボジア人のために使いたいと思います。カンボジア人も日本人と同じように幸せな人生を送ってほしいのです。カンボジアの子どもも日本の子どものように学校に行ってほしいのです。
最後になりましたが、日本の政府をはじめ、大和定住促進センターやNGOなどの私たちを支援してくださった日本の皆さまに感謝申し上げます。
ご清聴ありがとうございました。

「難民2世のアイデンティティ」
グエン ティ タン マイ(ベトナム)

マイさん
はじめまして、グエン ティ タン マイです。
私の両親は、二人の姉と私を連れて、長さ13メートル、幅3メートルほどのボートに乗り、私の家族5人を含めた76人が祖国ベトナムを逃れました。1981年4月のことです。当時の私は生後100日あまりの赤ん坊でした。
その後3日程海上を漂い、日本の船に救助され、フィリピンの難民キャンプに私たちを下ろしてくれました。フィリピンの難民キャンプを経て日本に来たとき、私は2歳でした。
日本の教育しか受けていない私は、始めのころなんとか日本人に同化しようと努めました。日本の教育というのは調和を重んじるので、その方が日本での生活は楽だったからです。そうやって中学校、高校と思春期を迎えるようになり、自分の将来についていろいろ考えるようになりました。
これだけ姿が日本人に近くても、国籍を持たないということは、日本で生活をするにはさまざまな障害があります。具体的には公務員になれないとかです。夢を描いてもそういうことに気が付いたときに、一生懸命に日本人に同化して生きてきたのに、国籍がなければ社会から日本人として認められることがないということに気がつきました。そういうことに気がついて、私はようやく自分自身の生い立ちについて考えるようになりました。
私は自分が荷物なのか分からず、ようやく自分自身の生い立ちを見つめ直しました。そして、どうしてこれまで自分は、こんなに無知でいられたのだろうと思いました。また、私は自分が難民であるという生い立ちやベトナムという国、そして、そんな運命をもたらした両親を心のどこかで非難し、否定してきたことに気づきました。そのことに私は今でも罪の意識を持ち続けています。
現在、私は大学で国際社会学を学んでいて、その傍ら、自分自身の足元を見つめる努力をしています。
この半年の間に、父が生まれた地、母が生まれた地、自分が生まれた地、そして、日本に来る前に20ヵ月間いたフィリピンの難民キャンプを訪れました。祖国を旅して、両親を理解できた今では、私は生い立ちを自分の個性として、祖国と両親に感謝と愛情を素直に持つことができるようになりました。
難民という言葉は、その悲惨さを強調されがちです。確かに難民は社会的に立場が弱いですが、そのカテゴリーに当てはまる難民一人ひとりは、実に多様で、個々人に人生があって、歴史があって、家族があります。
そして、一人ひとりは家族や友人を愛して一生懸命に生きているのだということを皆さんに知っていただいて、難民の方をより身近に感じていただきたいと思います。
ありがとうございました。