RHQ支援センターの業務

RHQ支援センターの業務

施設と対象者

施設 東京都内に2006(平成18)年4月センター開設。 センター施設近傍に宿泊施設を併設
対象者 法務大臣により難民として認定された方(条約難民)とその家族。 (ただし、今までに国際救援センターにおいて日本語教育等の定住支援を受けた方を除く。)

支援プログラム(概要)

コースの種類    
半年コース週5日、1日6時限学習(9:30〜15:40) (昼間) 日本語教育 572時限の日本語教育授業
1年コース週5日、1日3時限学習(18:30〜20:55) (夜間) 生活ガイダンス 日本での生活上有益な制度、習慣等の説明
  就職あっせん 職業相談及び職業紹介等

受講について

センターにおける各種支援プログラム、宿泊施設を利用する場合の宿舎費などを無料で提供。 (ただし、電話代や嗜好品の購入費等は自己負担。)

自宅からセンターへ通学による受講が可能。又はセンターの近隣地域に設ける無料宿泊施設からの通学も可能。 (ただし、無料宿泊施設利用は、半年コース受講者に限る。)

「日本における難民受け入れ」講演概要

「日本における難民受け入れ」講演概要

1. 日本における難民受け入れの歴史
1975年にベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国で内戦が勃発した後、1978年にインドシナ難民受け入れを政策として実施することを決定した。翌年にアジア福祉教育財団が日本政府からの委託によりインドシナ難民定住支援事業の実施することになり、難民事業本部はこの定住支援事業の実施団体として設置された。1982年には日本において難民条約が発効し、日本政府は同条約に基づき条約難民の認定・受け入れを開始した。日本には合計11,319人のインドシナ難民がおり(2005年末現在)、また、ミャンマー、アフガニスタン、イラン等出身の条約難民が451人いる(2007年末現在)。
2. インドシナ難民に対する支援
難民事業本部は、インドシナ難民受け入れが決定した後、姫路定住促進センター(兵庫県)、大和定住促進センター(神奈川県)、国際救援センター(東京都品川区)等を順次開設し、同難民に対して日本語教育や日本の習慣等を学ぶための社会生活適応指導、就労支援等を行った。その後インドシナ三国の政情安定化とインドシナ難民の減少に伴ってこれらのセンターを順次閉所し、2006年3月末をもってインドシナ難民受け入れは終了した。
3. 条約難民に対する支援
当初、条約難民は国際救援センターへの入所が許可されていなかった。しかし、2002年に中国の瀋陽日本総領事館事件をマスコミが大々的に取り上げ、また、国連人種差別撤廃委員会より日本政府が難民受け入れ体制について勧告を受けたことがきっかけとなり、同年から条約難民に対しても定住支援策の措置を実施することが決定し、2003年度から国際救援センターへの入所が開始された。難民事業本部は、同センター閉所後の2006年4月には東京都内にRHQ支援センターを開設し、入所を希望する条約難民とその家族を対象に、日本語教育、生活ガイダンスと就職あっせんを含む定住支援プログラムを実施している。
4. 難民認定申請者に対する支援
日本では難民認定申請から認定・不認定の結果が出るまでに1〜2年間かかっている。申請者が仕事を見つけ安定した収入を得るのは難しいのが現状である。 難民事業本部は、外務省からの委託契約に基づき、生活に困窮している難民認定申請者を対象に保護措置を実施している。同制度の下で生活費、家賃、医療費を支給し、緊急宿泊施設(東京都内)を提供している。保護措置受給期間は原則4カ月間となっているが、審査期間が長期化しているため延長している人もいる。
5. 難民定住者に対する支援
難民事業本部では、日本に定住した難民の文化継承等のためのコミュニティー活動に対して資金援助を行っている。また、難民が直面する様々な問題(仕事、医療、教育、役所の手続き、不安や恐怖など心の問題、親子間のコミュニケーション等)に関しても、本部事務所(東京都港区)や関西支部(兵庫県神戸市)、地方自治体等に難民相談窓口を設置して個別相談を受けている。

「イタリアの難民受け入れ事情」講演概要

「イタリアの難民受け入れ事情」講演概要

1. イタリアにおける庇護希望者・難民流入の歴史
1980年頃まではイタリアに来る庇護希望者の数は少なかった。しかし、ベルリンの壁崩壊や旧ユーゴ地域の政情不安定化に伴い、1980年代後半に変化が生じた。これらの混乱を逃れて約4,000人がイタリアで庇護を求め、その一部は難民認定を受けた。 近年の状況は異なり、経済難民といわれる就労目的の不法入国者・不法移民が増加している。このような人たちの中に庇護を希望する人が紛れているのが現状である。直近4年間では年間平均12,000人がイタリアで難民認定申請を行っており、難民認定率は約10%で、これ以外にも約40%の人々が人道上の理由により滞在許可を受けている。
2. イタリアにおける庇護希望者・難民流入の特徴
イタリアの場合の特徴は、庇護希望者の入国方法である。多くは、チュニジア、リビア、エジプトから、非合法組織が手配した小さなボートでイタリア沿岸に上陸する。エジプト人、ナイジェリア人、エリトリア人、ソマリア人が多く、内戦や部族間衝突から逃げてきた人々が多い。2007年には、このように海路で上陸した人が15,000人いた。イタリア沿岸警備隊および海軍は、難民が乗船している可能性のある船の救護活動を行っている。
3. 庇護希望者に対する支援
海上で救護した船に乗っていた人々は、上陸した後第一次救護施設に移送される。イタリア国内で一番大きな第一次救護施設はランペドゥーサ島にあり、同施設では国境なき医師団、UNHCR、イタリア赤十字社の職員が活動している。このような現場では、言葉や文化習慣の違いの問題以上に相手を助けたいと思う気持ちが大切である。第一次救護施設では食事、衣類、寝場所のほか、衛生サービスや健康診断等の医療サービスが提供される。庇護希望者(難民認定申請者)と認められた人々は他の受け入れセンターに移送され、それ以外の人々(不法入国者)についてはイタリア本土中央部にある収容施設で一時滞在させ、その後順次自国帰還の手続きを行う。また、ごく少数ではあるが、ミラノやローマの国際空港から合法的に入国し難民認定申請を行う人もいる。 申請者受け入れセンターは全国に10カ所あり、その収容能力は最小200人、最大1,000人である。効果的な申請者支援体制を組むのはなかなか難しいが、庇護を必要とする人々を見分け、将来的にイタリアの市民社会になじんでもらうための情報提供や語学教育の提供が重要となってくる。受け入れ施設のある市町村では、住民からの反発等が出るケースもある。非常に複雑な仕事ではあるが、きちんと運営していくためには、担当行政当局、難民支援団体ならびに救援施設や受け入れ施設のある地域の人々の理解と協力が必要不可欠である。
4. 難民認定手続きとその後
申請者受け入れセンターでは最長60日間の滞在が可能であり、この間に難民認定・不認定の結果を出す。最近は難民認定手続きの迅速化に努めており、平均35日間で結果を出している。 難民認定後は数年間の滞在許可証が付与され、イタリア国内を自由に移動できるようになる。生活していく上では、医療、社会保障、教育面でイタリア国民と同等の待遇を受けることができる。難民認定後自活できない場合には、イタリア政府からの生活保護費を受給できるが、通常6カ月間のみである。それでも不十分な場合には、再度審査を受けた上で延長可能だが、最大1年となっている。

「イラク難民は今」講演概要

「イラク難民は今」講演概要

1. イラク難民発生の背景
2003年3月、イラクの大量破壊兵器保有疑惑を理由にアメリカがイラクを攻撃しイラク戦争が始まった。この頃から社会システムの崩壊と公共サービスの麻痺が徐々に進行した。同年5月にはアメリカによる戦闘終結宣言が行われたが、2006年2月のサマラ聖廟(モスク)の爆破事件後には宗派間対立が激化しテロが頻発した。イラク情勢は更に不安定化し、難民の流出に歯止めがかからない状況である。UNHCRの統計によると、イラク国内における避難民数は約190万人、国境を越えシリアに逃れた難民数は約140万〜150万人、ヨルダンに逃れた難民数は約45万人〜50万人に上る。
2. ヨルダンにおけるイラク難民
ヨルダン政府は、2003年にイラク難民の流入が始まった当初は、その多くが富裕層だったこともあり、イラク難民の存在を容認していた。しかし難民数の増加や貧困層のイラク人の流入により、ヨルダン経済に負の影響が出始めたため、現在は難民対策を強化している。ヨルダンでは、イラク難民およびヨルダン人を対象に食料支援や医療支援、職業訓練、教育支援が実施されているが、難民の置かれている状況の把握が困難であるため、効果的に支援を届けるのもなかなか難しいのが現状である。 イラク難民の特質として、母国での宗派間対立の暴力や脅迫等の体験から精神的ダメージを受けていること、帰還の可能性等先行きが見えないため将来に対する不安があること、収入喪失を原因とする家庭内での家長の権威失墜の結果として家庭内暴力が増加していること、不法就労等非合法的な収入に依存せざるを得ないこと等が挙げられる。
3. シリアにおけるイラク難民
シリアでも2006年2月からイラク難民が急増した。それまではシリア政府は難民に対して寛容で教育や医療サービスを提供していたが、難民数の急増により国内の教育・医療システムが圧迫され始めたため、政府による難民に対する待遇は厳しくなっている。 ヨルダンと異なり、過去に国際的な支援を受けた経験を余り持たないシリア政府は、外国の組織によるイラク難民支援に関して非常に慎重になっている。ヨルダンよりもシリアの方がイラク難民数は多く支援のニーズは存在するものの、支援活動の実施は難しいのが現状であり、NGOとしてはまだ実質的な支援は開始できていない。
4. イラク難民問題の課題と展望
多数のイラク難民の受け入れ並びにイラク難民の滞在の長期化は、ヨルダン・シリア両国に大きな負担となっている。国際社会は、受け入れ国政府に対し実質的なサポートを提供し、ホストコミュニティーと難民コミュニティー間の摩擦を軽減するため、そしてホストコミュニティーをエンパワーメントするためにイラク難民のみならず受け入れ国の国民をも対象とする包括的支援を実施していくべきである。同時に、支援する側は、イラク難民の帰還がイラク再建の原動力となるという長期的な視点を持ち、イラク難民支援を地域的プログラムと捉え、キャパシティー・ビルディング等中長期的コミットメントを要する継続的支援を行っていく必要がある。

「NGO活動の現場からみたミャンマー難民」講演概要

「NGO活動の現場からみたミャンマー難民」講演概要

1. ミャンマー・タイ国境の難民キャンプ
ミャンマーでは、イギリス植民地政府による民族別分割統治政策と1948年独立後の政府によるビルマ族優遇政策により、民族間対立が激化した。1984年の政府軍によるカレン族に対する大攻勢や、1990年の民主化運動に対する弾圧を逃れ、多くの人々が国境を越えタイ側に滞留し、難民キャンプが形成された。現在タイ政府が承認したキャンプは九つ存在し、UNHCRの2008年1月現在統計によると、キャンプの総人口は約13万人であり、現在でも新たな難民の流入が続いている。 これらの難民キャンプは、タイ政府の管理下に置かれており、難民自身で構成される難民キャンプ委員会が自主的に運営をしている。同委員会の下には、食糧配給、水衛生、保健医療、教育等を担当する小委員会があり、それぞれの分野における国際NGO等の援助の受け皿となっている。
2. 難民が抱える問題・課題
原則として難民はキャンプ外への移動の自由が認められていない。キャンプ内では、難民の就労は援助機関やキャンプ運営委員会の仕事以外には認められておらず、学校教育を終えた若者には就労する機会がない。タイ政府は難民のタイにおける定住を許可しない方針を貫いているため、将来の展望が描けず閉塞感を覚える難民の若者は多い。 依然として本国自主帰還が困難であるため、2005年にUNHCRによる第三国定住プログラムが開始され、2007年には14,636人が米国や北欧諸国等11カ国の受け入れ国へ定住した。現在までにキャンプ委員会メンバーやNGO職員等、キャンプ内のコミュニティー活動の中心となってきた難民たちが再定住し、今後も増え続けることが予測される。
3. シャンティ国際ボランティア会(SVA)の難民支援活動
難民キャンプでは母国語の書籍がほとんどなく、学校の図書館でも書籍が不足している。また、キャンプが長期化すればするほど、祖国を知らずに育つ子どもが増え、文化やアイデンティティー消失の危機も生じている。SVAは、このような問題を少しでも改善するために、2000年からキャンプ内での図書館活動を開始した。 現在までキャンプ内に合計25の図書館を開館した。図書館は難民の図書館委員会メンバーと図書館員によって運営されており、具体的には日本やタイで出版された絵本をカレン語・ビルマ語に翻訳したり、絵本、紙芝居、人形などを使って話の読み聞かせをしたりしている。カレン語やビルマ語による民話絵本の出版や、伝統舞踊教室や伝統楽器教室の開催を通して難民の伝統文化の維持にも努めている。 第三国定住プログラムの開始は、SVAの事業にも影響を及ぼしている。第三国定住が決定した図書館関係者の仕事に対する意欲が低下したり、彼らの再定住後、新たな適任者を見つけて人員補充するのが難しくなっている。このような状況の中でSVAの図書館事業に期待される役割とは、全ての年齢層(幼児から高齢者まで)の難民に母語に触れる機会を提供すること、青少年ボランティア育成の機会を提供すること、文化・アイデンティティーの維持・継承に寄与すること、そして図書館自体が世代を超えて地域の人々がつながるコミュニティーセンター的な役割を果たすことである。

「日本に暮らすイラン難民」講演概要

「日本に暮らすイラン難民」講演概要

1. なぜイランを逃れて日本へ来たのか
自分はイランでは教師として働いていた。当時新しく樹立した政権は人々に言論や報道の自由を認めておらず、自分も含めて多くの人が逮捕された。弟は大学を卒業後なかなか就職先が見つからず、当時はイラン人が日本入国する際にはビザが不要だったので、日本へ来た。自分は自由な生活を送りたかったので、日本へ来て弟と一緒に暮らす決心をした。
2. 日本で難民認定申請をしてから
来日後、難民認定申請の必要書類を入国管理局に提出した。当時は日本語も英語も分からなかったが、担当者は優しく対応してくれた。最初は3カ月間のビザが発給され、その後難民認定を受けるまでの6年間は、3カ月間のビザをずっと更新し続けていた。
3. 日本での生活で困っていること
今は日本で自由な生活を送ることができ、とても幸せである。自分は帰化して日本国籍を取得し、日本人のパスポートも持っている。仕事をして収入を得ているので、イランにいる家族に送金している。 自分は来日してから15年間ずっと千葉県にある会社で働いている。この仕事は一年ごとに契約更新をしなくてはならないのが悩みの種である。いつまでこの生活を続けていけるのか、いつでも頭の中で考えており不安である。また、いつかイランから家族を呼び寄せて日本で一緒に暮らすことを考えているが、まだ叶わない夢である。
4. 参加者へのメッセージ
頑張ったら何でもできると皆さんに伝えたい。自分は来日当初は日本語が全く分からず、今でも良く分からないが、ここまで何とかやってきた。イランには母親や息子など家族がいるので、自分は日本で寂しい思いをしているが、イランに帰るつもりはなく、日本で頑張って生活していく。自分はもう若くはないが、家族のためにまだまだ頑張るつもりである。

「私たちにできること〜富士メガネの活動」講演概要

「私たちにできること〜富士メガネの活動」講演概要

1.富士メガネとしての活動内容 (1) 概要
  • 海外で難民の視力を検査し、各自に適したメガネを寄贈した。
  • 難民に対して約10万8千組のメガネを寄贈した。
  • これまで合計124回のミッションを行った。
(2) 人間の手のぬくもりが伝わる活動
難民キャンプで寄贈するためのメガネを毎年5千組から8千組製造している。現地のスタッフに対する技術指導を行っている。中には日本に招いて研修の機会を設ける場合もある。活動地域ではメガネのスクリーニングに必要な検査器具の贈呈も行う。メガネの寄贈活動を行う国を毎年変えることはせず、1カ国につき約10年間の支援活動期間を目処としている。
2. UNHCRとのパートナーシップ もともとUNHCRとのパートナーシップで実現した活動である。1984年からUNHCRの公式要請と全面支援を得て、活動を実施している。公式要請を受ける以前は、難民キャンプでのメガネの贈呈活動を続けることが困難だと考えた時期があった。 現在はUNHCRのコーポレートパートナーとして活動している。したがってUNHCRが活動地での費用を負担している。富士メガネは社員とメガネの費用を負担している。UNHCRのコーポレートパートナーには、他にマイクロソフト、ナイキ、メルク、アルマーニグループ、ネスレなどがある。 メガネを寄贈する国はUNHCRと相談して決定する。 3. 難民支援に関わるまでの経緯 (1) 難民支援を始めたきっかけ
支援を開始した当時は、インドシナ難民が発生した時期で、難民の自立を支援する教育プログラムなどがあった。そこでメガネがないため難民が苦労しているという話を聞いた。また、メガネがないことによって教育効果が妨げられているという声が強かった。
(2) 難民に贈呈するメガネへのこだわり
活動開始当初から新しいメガネを寄贈している。それは受け取る人々の喜びが、使用済みのメガネに比べて数倍に大きいからである(1回のミッションで約4千組を用意する)。 フレームは特別なものを除いて、フレームメーカーや代理店などから無償で提供を受けている。 メガネの度数は多様に用意している。度数が間に合わない場合は、日本に帰国して用意する。 白内障術後の眼内レンズや補聴器の寄贈も行っている。 使用済みのメガネも約3万組を各地へ寄贈している。
4. 各地の難民キャンプ訪問によって自身が感じたこと (1) メコン川沿いの難民キャンプ
当時タイにいるインドシナ難民が第三国へ移動し、彼らの自主帰還に際して国境沿いにたくさんの難民キャンプができた。同キャンプでは通常、民族別に分けて保護活動が行われていた。そのうちの数カ所を訪問した。 タイの山岳地帯の少数民族などは、細かい民族衣装の刺繍作業によって視力が悪い人もいた。この時、難民へメガネを配っている人に出会った。しかし個人的な活動に留まり、組織的な活動につながらないことに、支援の難しさを感じた。タイのパナトニウコムが第三国定住先へ向かう一つのルートになっていた。避難民であふれる現地の光景にショックを受けた。
(2) ネパール内の5カ所の難民キャンプ
ブータンからの難民が約10万人。ブータン難民はネパール系の子孫である。治安面で危険な状況にも遭遇した(マオイスト集団の攻撃)。 人々のキャンプ生活が長いようなキャンプでは、視力補正だけでなく、心理面のケアも必要だと感じた。NGOのAMDA直営の病院にメガネをあずけて作業をした。
(3)アルメニア国内のアゼルバイジャン系難民へのミッション(1997年〜)
ロバート・ロビンソンUNHCR前駐日代表の招待でアルメニアを訪問した。当地ではナゴルノ・カラバフという自国内の領土をめぐるアルメニアの紛争から大量の国内避難民が発生し、避難地域では彼らに対する同化政策が行われていた。政府レベルの関心が高かったため、政府の力を借りて首都エレバンにて支援活動を行った。病院を借りて作業をすることができた。 支援活動には、ミッション・アルメニアなどのNGOが協力してくれた。今後メガネを受け取った人の追跡調査などを試みたい。
(4)アゼルバイジャン、バクー
同国はイスラム教国であるが、国内にアルメニア領域(キリスト教を信奉)を抱える。彼らは国内避難民と言える状況にある。ただしUNHCRは難民として認定していない。
5. 国内での活動 中国残留孤児の日本帰国に際して、854人の残留孤児に対して約900組のメガネを寄贈した(当時中国ではメガネは高価なもので手に入らなかった)。

「パレスチナ難民は今」講演概要

「パレスチナ難民は今」講演概要

1. パレスチナ難民とは
1948年のイスラエルとアラブ人との間に起こった戦争をきっかけに、イスラエルから逃れた人々を指す。したがって60年近く難民生活を続けている人々を指す。また戦争の性格から、宗教戦争のように語られることが多いがパレスチナ問題とは、宗教対立ではない。 支援活動はガザ地区、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン、シリア、レバノンで行われている。これらの地域に59の難民キャンプがある。UNRWAに登録している難民は、1950年:91万人、2003年:400万人。同国連機関に登録されていないパレスチナ難民も約150万人いると推定されている。
2. 難民の帰還権
国連決議194号には難民が故郷に帰国する権利を明記しているが、パレスチナ難民とはパレスチナが存在する以前に難民となった人々であるため、彼らには帰国する国が無い。このことがパレスチナの難民問題の解決を難しくしている。
3. 難民支援の現場から
ガザ地区南部のラファ(エジプト側に位置する):人口の59%はパレスチナ難民というこの町は、2004年春に軍事侵攻をうけ、大規模な家屋の破壊にみまわれた。同時にたくさんの人々が家を失った。日本国際ボランティアセンター(JVC)が支援する幼稚園に通う児童の一人が命を落とした。この事件によって、登録されて難民になったというよりも、その状況がまさに難民と呼べるような状況にある人々が大量に生じた。 過去においても度々、このような難民が発生している。シャロン首相のアラクサモスクへの入場を契機として始まった第三次中東戦争においても、多くの難民が発生した。当時合計で6千万ドルに相当する家が壊され、子供を含む多くの人々が死亡した。同地におけるこれまでの戦闘の中で、最も破壊が激しかったと言われる。
(1) JVCの支援活動の中で思うこと
ラファ地区の周りの地区(ショウカ)も含めて、家を失った人々、栄養失調児と母親や、栄養失調児を抱える貧困家庭を対象に、栄養・保健指導を行った。周囲の地区も間接的な被害者であるということを認識することは重要である。人道支援だけでは、問題の根本的な解決にはならない。紛争そのものを解決する必要がある。
(2) ガザ地区における現状
8つの難民キャンプが存在する。60年間にコンクリート造りの建物が並ぶ一つの街のような外観に成長し、世界一人口密度の高い街と言われる。 当初UNRWA等の援助団体から難民に与えられたのは、3メートル四方の住居だった。 第三次中東戦争以降、当地はイスラエルの占領下に入る。難民キャンプに住む人々の多くはイスラエルへの出稼ぎで生活している。イスラエルにとって難民キャンプは、安い労働力の供給源ともいえる。同時にイスラエル側は、当地内部において産業が興ることを妨げるような政策を続けてきた。 2005年のイスラエル軍のガザ撤退によって、イスラエルによる当地の占領は終わったと言われているが、空海からの監視が続いていることに加えて、ガザ地区の外へ通じる道路は2カ所のみに限られている。イスラエル当局によって、引き続きモノおよび ヒトの移動が管理されている状況といえる。 オリーブの生産など、地域に合った作物を商業ベースでつくる農業をはじめとする産業が興っているが、モノ及びヒトの流れが管理されていることによって、その発展への悪影響を否めない。 自治政府ができたことで、交通警察や自治政府職員など雇用が生まれていることは歓迎すべきことである。 難民として生活する人々は、子供たちへの期待、教育への関心が高い(NGOのセーブ・ザ・チルドレンによる心理調査によっても語られている)。 JVC は、当地で1992年から活動してきたが、弱い立場にある人々が対等に和平交渉など進められるようになることを願っている。
4. ヨルダン川西岸地区における分断壁の建設
ヨルダン川西岸地区とイスラエルを分断する高さ8mの壁の建設が進んでいる。 パレスチナにおけるテロリストのイスラエルへの侵入を防ぐ目的とされている。 国際法上は違法だが、既成事実の積み重ねとして建設が進んでいる。国際司法裁判所は建設の中止を忠告しているが、未だ建設は中止されていない。西岸地区内では、道路封鎖や巨大な検問ターミナルの設置が見られ、移動検問所などを通らないと、隣町への移動すらできない状態である。

「スーダン難民支援の現場から」講演概要

「スーダン難民支援の現場から」講演概要

1.スーダン概要 (1) 現状
20年来の北部イスラム系アラブ人対南部キリスト教およびその他の宗教間の内紛(南北の内戦)が終結し、現在復興に向かいつつある。2005年7月に和平合意、統一暫定政権政府としての機能が復活した。南北は別々の政府が機能しており、教育システムなどは別々の状況である。したがって、事実上、政府は統一されていないといえる(スーダン南部とは、南部の10州を指す。南部と北部の国境付近に天然資源が豊富であり、国境の策定をめぐって南北の合意は達成されていない)。
(2) 今後の課題:和平合意を実行すること
2011年に国民投票が予定されているので、おそらくその機会に南部の独立を問われることになるだろう。国際社会からは、南部が独立することになるだろうと考えられている。
(3) 国内避難民
内紛を逃れ南部から北部へ脱出した国内避難民は、400万人から600万人にのぼると考えられている。現在もなおスーダン北部を中心とし350万人から400万人程度の国内避難民が避難生活を続けていると予測される。南北の内戦の終結に伴って、難民および国内避難民の再定住が現在のスーダンの課題である。
(4) 難民・国内避難民の再定住
エジプト、エリトリア、エチオピア、ケニア、ウガンダ、コンゴなどに逃れている難民のうち、すでに約10万人が帰還したと考えられ、そのうち約1万5,000人が南部に帰還した。現在、毎週約700人のペースで帰還がすすんでいる。5月には雨季が始まるため、その前に相当数が帰還すると考えられている。
2. スーダンの復興と国際社会の取り組み
 (1) 国際連合スーダンミッション(UNMIS)による和平合意の内容遂行の監視および支援
 (2) UNHCR、WFP、UNICEFの三機関による支援
 (3) 三者合意の締結:スーダン南部復興のためのスーダン政府、中央アフリカ共和国政府、UNHCR間の合意
 (4) 国内避難民への帰還支援についてはIOMが中心となって支援している。
 (5) 難民への帰還支援はUNHCRが中心となって支援している。
 (6) 国連のミーティングによる団体間の調整 支援分野および地域が重複することがないように同ミーティングにはNGOも支援実施機関として参加している。
3. スーダン南部における支援状況 (1) 南部の中心都市、ジュバの事例:
  • ケニアやウガンダへ多くの人々が逃れた都市
  • 支援実施団体のNGOが水、食糧を配給する。ボーダーラインのコンディションが悪いので、難民の輸送には通常UNHCRの手配によって飛行機が用いられている。
  • 国境付近にNGO運営の一時宿泊施設があり、NGOによって帰還民の登録が行われる。また、同施設で当面の食糧や内陸の村へ帰還するための費用の支給も行われる。
  • 帰還民に対する帰還先での支援:ピース ウィンズ・ジャパン(PWJ)などによるNGOが教育施設の復興支援を行っている。
(2) ジョン・グレー州のボーの事例:
  • PWJによる帰還事業の実施地―当地で青空教室の学校の開校
  • UNICEFによる教育指導、カバンの支給ジョン・グレー州ではナイル川の水が手に入るが、きれいな水ではないので子供が下痢やコレラなどで死亡するケースが絶えない。生活用水の確保が不十分であるといえる。
4.スーダンの復興へのPWJの取り組み
(1) 時期: 2006年5月に調査、2006年8月に事業開始〜2007年3月に事業終了予定
(2) 目的: 帰還の促進
(3) 事業内容:
(イ) 水衛生事業 井戸設置(18本)、井戸のメンテナンスの指導、衛生研修、2007年は地域を拡大して井戸掘削事業を展開予定
(ロ) 公共トイレ設置事業 トイレ八つを設置。もともと井戸と同数のトイレ導入を予定していたが、スーダンの人々にトイレを使う習慣がなかったため、数を減らして設置した(ただし、難民キャンプから帰還したスーダン人はトイレの習慣を身につけていた)。衛生面を考慮するとトイレ設置は不可欠だったので、人が集中する広場や公園、学校など公共施設に限って設置した。 導入するトイレの型については、国際社会で議論された結果、安全面を考慮して汲み取り式トイレが設置された。土地の地盤が粘土質のため、地面をただ掘って作ったタイプでは、壁などのコンクリートが崩れてしまうことがあった。地面を掘っただけのタイプに比べて、コンクリートで中を固めた汲み取り式トイレは、スーダン人の生活習慣の中に根付きにくいかもしれないという懸念はあったが、使用者の安全確保が優先されることになった。

「欧州諸国の難民受け入れ事情」講演概要

「欧州諸国の難民受け入れ事情」講演概要

1.各国の難民受け入れ政策、申請手続き
UNHCRの第三国定住プログラムによる各国の難民受け入れ数をみると、受け入れ国および受け入れ数が決まっている。 アメリカ、カナダ、オーストラリアなどが比較的多数の難民を受け入れているが、一方でアイスランドは20家族程度の受け入れにとどまっている。このプログラムを導入しているのは、世界で16カ国のみである。 各国の受け入れ理由としては、各国内の労働力不足に加えて、優秀な人材の確保や、世界にむけて人道的支援をアピールする目的などがあると考えられる。 個々の庇護申請手続きは、各国によって基準が異なる。UNHCRによると、日本は比較的厳しい条件を適応していると見られている。一方で、例えばフィンランドのように、自然災害によって母国を追われた人なども難民の定義に含めるなど、より柔軟に対応をしている国もある。個々の庇護申請のプロセスも各国によって異なる。
2. 難民等受け入れ数(UNHCRによるレポートを参照)について
日本の難民受け入れ数は少ないと一般的に言われている。注意すべき点として、日本での申請者数を諸外国の数字と比べると、申請者数もまた諸外国の数字よりも少ないという事実がある。
3. 各国における個々の庇護申請者への支援状況 (1) UNHCRの第三国定住プログラム
出国前オリエンテーションでは、難民が移動先の外国でスムーズに適応できるように、受け入れ国の基本情報の紹介や健康診断などが行われる。出国前に受け入れ国の言語を学ぶ機会を提供する国もある。
(2) 個々の庇護申請手続きによる受け入れ
欧州諸国の難民受け入れ国の共通点として、庇護申請者対象の受け入れ施設があり、同施設において語学教育等を実施している。また就労訓練、医療サポートなど適宜提供されている。受け入れ施設の特徴としては、娯楽施設を併設している国(アイルランドやベルギー)やホリデーセンターであったものを施設として使用している国(オランダ)、収容施設を併設する国(デンマーク)など多様である。国によっては、施設の提供は庇護申請者の管理という便宜上の理由もあるようである。
4. 各国の難民認定者への支援状況 (1) 定住支援の概要
定住プログラムの支援対象者、条約難民、クオータ難民(注)および人道的配慮によって受け入れられた者などに対して同様の定住支援が施されている。日本では難民に特化した支援プログラムがある。

(注)クオーター難民は

UNHCRの第三国定住プログラムを導入している国が毎年一定の数の割り当てを決めて受け入れる難民
(2) 定住プログラムの内容
語学教育、職業訓練、就職支援など。
(3) 定住支援プログラムの実施団体
各国によって異なる。例を挙げると、北欧諸国では政府が資金を拠出し、地方自治体が支援を実施、ニュージーランドでは、政府がNGOを通じて定住支援を行っている。
5. 日本における定住支援プログラム
平日昼間コース(半年)と平日夜間コース(1年間)の二つのコースがある。
(1) 対象者
条約難民および法務大臣に難民と認定された者とその家族。
(2) 内容
日本語(572時限)、生活ガイダンス(約120時限)、就職あっせんを行っている。
(3) 日本での就職先
工場などが多い。
(4) 宿泊施設
必要な場合に無料で提供している。

「日本で暮らすカンボジア難民」講演概要

「日本で暮らすカンボジア難民」講演概要

1.なぜ難民となったのか
カンボジアの内戦から逃れるため、自分の両親は子供の幸せのために国を出ることを決めた。タイの難民キャンプまでの道のりは、辛いものだった。道には、死体がたくさんあった。自分たちが持っているものを盗もうとする泥棒も沢山いた。カンボジア政府や警察、泥棒に見つからないように隠れながら逃げていた。
2.タイの難民キャンプでの生活
難民キャンプに入るには、とげのバリアを潜って入るしかなかった。父親は自分たちがとげに刺さらないように一生懸命、体を張って守ってくれた。タイ政府やタイ警察に見つかる前に難民キャンプに入らなければと焦る気持ちでいっぱいだった。見つかってしまえば、カンボジアに戻され殺されてしまう。食べ物はなく、自分たちで探さなければならなかった。食べ物を得るために、自分たちが持っているものと交換して分けてもらった。難民キャンプでの生活も安心できるものではなかった。いつタイ政府に見つかり国に連れ戻されてしまうのか不安だった。
3.日本に来ることになった経緯
自分たち家族は、UNHCRから許可が下りるまで約5年間、難民キャンプで生活した。自分たち家族は、日本へ行きたいと希望した。希望してから約半年待ち、日本政府から受け入れの許可が下りた。
4. 日本での生活
日本政府の人と一緒に飛行機に乗って日本に来た。そして、神奈川県大和市にあった大和難民定住促進センターに入所した。日本語、日本の習慣などを勉強し、3カ月後にはセンターを退所しなければならなかった。
(1) 小学校・中学校での生活
自分は小学校へ入学したが、言葉も分からず友達もできなかった。みんなとは違うという目で見られ、いつも一人だった。小学校では、取り出し授業というのがあった。取り出し授業では、みんなが同じ授業を受けている時間に、違う教室でボランティアの先生に日本語の勉強や授業で分からないところを教えてもらっていた。取り出し授業には、他にも同じ国の子が数人いたので、学校にいて唯一安心できる時間だった。 中学校でも取り出し授業をしようとの話があったが断った。みんなと同じ時間に同じ授業を受ければ、みんなの輪に入れてくれるかもしれないと思った。しかし、友達の輪にもなかなか入れず、輪の中に入れたと思うとすぐにまた輪から外されてしまうのでとても寂しかった。そんな時、自分はあるボランティアの先生と出会った。先生との出会いは、神奈川県の淵野辺駅にある学生会館である。学生会館には、大学生のお兄さんやお姉さんがボランティアで勉強や学校での悩みや困ったことなどの相談にのってくれた。学生会館に通うことで、仲間ができ、少しずつ自信がもてるようになった。学校でも少しずつではあるが、日本人の友達ができるようになった。
(2) 高校での生活
学生会館に通っていたかいもあって、高校にも無事に合格することができた。高校での生活は、楽しかったがショックなことがあった。それは、自分と同じ国の子がカンボジア人であることを隠して学校生活を送っていたことである。自分は同じ国の友だちから「あの子もカンボジア人だよ。」と聞き、うれしくなり、その子に「同じ国だったんだね。うれしいな。」と言った。そうしたら、その子は「何で知ってるの。みんなには言わないでね。知られたくないし、嫌だから。」と、とても悲しそうに言った。自分は返す言葉に詰まってしまった。本当にショックだった。「もっと自信を持ってよ。国が違っても関係ないよ。」と言いたかった。
(3) 専門学校での生活
高校を卒業し、自分は医療事務の資格を取得するため専門学校へ行った。就職活動では、外国籍ということで差別をされた。一度は就職をあきらめようと思ったこともあったが、支えてくれた家族や先生、友達に励まされ、もう一度頑張ろうと思い、病院を受けた。就職が決まったときはとてもうれしかった。
(4) 参加者へのメッセージ
自分は小さい時に日本に来たので言葉も覚え、人との出会いにも恵まれたので頑張ってくることができたが、言葉が通じないことで不安をいっばい抱え、困っている人がたくさんいる。周りに困っている外国籍の人がいたら何でもいいので優しい一言をかけてほしい。その−言が救いになると思う。大人が、子供たちにいろいろな国の人がいることを教えてあげてほしい。たくさん、外国籍の人と交流する場を作ってほしい。いろいろな国の子供が皆仲良く笑顔で楽しく生活できる国になればいいと思う。