エリトリア
エリトリアの帰還民 (2001年10月28日〜11月6日の現地調査) 1950年代に始まり、1993年の独立達成まで続いたエリトリアによるエチオピアからの独立闘争の間に約90万人のエリトリア難民が発生し、多くがスーダンに逃れ、一部はイエメンにも流出しました。また、2000年5月に発生したエチオピアとの紛争で新たに9万5千人の難民がスーダンに逃れたほか、約1千人がジブチ又はイエメンに流出しました。 2000年4月にスーダン政府、エリトリア政府、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の3者で、スーダンに滞在している16万人のエリトリア難民の帰還に関して合意が成立し、UNHCRは同年後半に本格的な帰還の支援活動を開始しました。合意が成立した時点で、UNHCRが援助の対象としている難民キャンプに滞在する難民の数は、約14万7千人でした。このほかに約15万人のエリトリア難民がスーダン国内の都市部及び地域に滞在しています。 上記の3者合意に基づいて、2000年に約3万人が帰還しましたが、今後帰還が更に進展することが見込まれていることから、当事業本部は帰還民支援のニーズを把握するため、スーダンと国境を接し、難民の80%が帰還する予定地であるガッシュバルカ地域において現地調査を実施しました。 1. 帰還の状況
▲ コンボイはUNHCRの車両に先導されて、1番目のバスに婦女子等の弱者が乗車し、続くトラックに約200人が分乗し、荷物用のトラックがこれに続き、ロバ、ベット、住宅建設用の機材等を乗せていました。
2000年4月の3者合意において、UNHCRはスーダン国内のエリトリア難民16万人を2002年までに帰還させ、2003年まで再定住の支援をすることが決定されました。この合意に基づいて2000年中に3万人が、2001年中に6万2千人が、さらに2002年には7万人の帰還が予定されています。 難民の多くは出身の村ではなく別の村に帰還しますが、受け入れる村側は新たな小学校の建設、訪問クリニックが常設クリニックになること、安全な水が供給される等の恩恵を受けることができるため、帰還民の受入れを歓迎しています。 調査団はスーダンからの帰還のコンボイを迎える機会がありました。帰還民は手を振り、歌を歌い、祖国に帰ることを喜んでいました。帰還民はスーダンとの国境から約25kmのテセニーにある受入れセンターに3日間滞在し、入国手続き、健康状態のチェック、地雷教育を受けた後、希望の村へ移動します。 帰還民は帰還の際に2ヵ月分の食糧(小麦、豆類、油、塩、ビスケット等)が支給され、帰還地において日用品(毛布、蚊帳、キッチンセット、ポリタンク、農業機具等)、当面の生活維持に必要な金銭が支給されるほか、シェルター(プラスチックシートとフレーム)、水、1家族(5人)に農地2ヘクタールが与えられます。また、2002年末まで食糧が提供されることになっています。難民が帰還する村には小学校、クリニックが建設されます。これらの支援は、ERREC(Eritrean Relief and Refugee Commission)、UNHCR等の国連機関及びNGO等により行われています。 2. 今後の支援等 エリトリア難民の帰還先であるガッシュバルカ地域は元々道路等のインフラ整備がされていない上に、2000年に発生したエチオピアとの紛争で公共設備が破壊され、さらに3年間続いた干ばつの影響で土地は干上がっており、農作物の収穫量が大変少ない地域です。 帰還民は農地を与えられ、2002年までの食糧支援の後は自立して生活をすることを求められています。しかし、農地が荒廃していて6月の雨期の前に種まきをしないとその年の収穫ができないことや地域住民の農作物の収穫量は家族を賄う程度といっていることなどから、特に母子家庭を対象とした所得創出活動が必要です。 また、調査団が訪問した小学校の教室は既に生徒でいっぱいなため、今後帰還が進展すると収容しきれなくなることが予想されます。教科書は教師が1部持っているだけで、プリントもなく副読本やスポーツ用具もありません。学校内の設備も不十分で、水道、トイレ、教師用宿舎も不足しています。帰還民はスーダンでアラビア語の教育を受けていましたが、エリトリアの学校の多くはティグリニア語と英語を併用しているため、英語の補習授業等が必要と思われます。 村のクリニックはそれまで訪問クリニックであったものが常設クリニックになる等の改善が進んでいますが、医療従事者は15日程度の訓練を受けた人しか勤務しておらず、また医薬品も必要量の2/3程度しか供給されていない等の問題があります。 この地域は上記以外にも全ての分野で支援が必要であると、多くの支援関係者が述べています。
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