カンボジアの帰還民 (2001年3月19日~22日の現地調査)

カンボジアでは、1975年のポルポト政権の登場や、78年のベトナム軍の侵攻、翌年のヘンサムリン政権の登場と、それに続く内戦によって多くの難民が流出し、その一部は日本にも定住しています。難民定住者にとって、祖国の行方は気になるところですが、93年には国連の管理下で総選挙が行われ、その後復興の努力が続けられています。国際社会も支援を強化しており、民間レベルでは、300団体もの国際NGOが現地で活動しています。当事業本部は、カンボジア北部のタイと国境地帯を接するオッダールミエンチェイ州を訪れ、同州東側の2郡を調査しました。特に、アンロンヴェン郡はポルポト派の最大の拠点だったところで、98年4月になって政府軍により制圧されました。それ以後、国内やタイに逃れた人々の大量の帰還が行われ、帰還民の再定住支援と開発が急務となっています。
1. 辺境の地
オッダールミエンチェイ州は、1999年にできたばかりの新しい州です。北部辺境に位置するだけでなく、ポルポト派の最後の拠点であったところから、98年に制圧されるまでは、カンボジアの復興プロセスとは孤立無援でした。橋や道路などのインフラは、もともと貧弱であった上に、戦闘の惨禍が及んで極めて劣悪な状況にあります。そのためこの地域へのアクセスが困難となっているほか、多数の地雷の埋設、マラリアの汚染地域であることなどの悪条件が重なって、制圧後も支援の手がなかなか届きません。
2. 難民帰還支援
この州からは、特に制圧直前の97年から98年にかけて、政党間の武力衝突も重なって、大量の避難民が南方や、国境を越えてタイ領内に流出しました。制圧後、タイ領内の難民キャンプからカンボジアに帰還した人だけでも4万6,000人にのぼると言われます。これに加えて、国内からの帰還者も相当数おり、現在もわずかながら帰還があります。大量帰還に際しては、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とWFP(世界食料計画)が、緊急食糧配布、農業支援、学校、保健センター、井戸の整備など、帰還民が生活を再開するのに必要な支援を行いましたが、UNHCRによる支援は、2000年末をもって終了しました。それに伴い、UNHCRの実施パートナーだった国際NGOもほとんどが引き揚げました。当調査団が訪れたのは、アンロンヴェン郡とトラペアンプラサート郡ですが、今残っているNGOは、MSF(保健センターの運営指導)や現地の人達によるNGOであるTEUK
SAAT(井戸の整備)など少数になっています。
3. 緊急支援から開発支援へ
帰還民への支援は、緊急人道支援から開発支援の段階に移行しているというのが、大方の見方です。しかし、これは支援ニーズが減少しているということではなく、ニーズの種類が変わりつつあることを意味します。現地では、UNDP(国連開発計画)が政府に対して開発の進め方についての支援を行っているほか、WFPがFOOD
FOR WORK(帰還民が提供する労働力の対価として食糧を支給する計画)による道路などのインフラ整備、UNICEF(国連児童基金)が世帯調査、保健センターへの技術協力、教員養成、母子保健など小規模ながら包括的なプロジェクトを実施中です。このように開発支援の分野では、これら2郡に関する限り、国連機関による活動が中心で、NGOによる活動はわずかです。
4. 膨大な開発ニーズ
アンコールワットがあることで有名なシエムリアップからアンロンヴェン郡までの道路は最近になって改善されましたが、そこからトラペアンプラサート郡への道路は劣悪で、村落間は一般的に同様の状況にあるようです。悪路は、地雷の存在とあいまって、国際機関やNGOが支援活動を遠隔地に拡大するのを阻んでいるほか、学校、保健センターを住民が利用することへの障害にもなっています。小規模のアクセス路の整備はNGOでも実施可能ですが、全般的な整備は多大の資金が必要で、政府の施策を待つほかはありません。他方、保健医療サービスの地方展開、学校の増設や教材配布、教員養成を含む職業訓練、母子家庭や障害者など社会的弱者の保護、農業の多様化や家畜を導入するための資金提供や技術指導などの支援は、NGOの活動にも適しています。大きな開発ニーズに対して、限られた援助資金を有効に活用するため、国連機関など支援者側と、支援を受ける政府や自治体側が共同してプロジェクトを選定する仕組みが立ち上がりつつあり、これはSEILA(礎)プロジェクトと呼ばれています。組織としては、州レベルの開発委員会(PRDC)がその主体となっており、NGOが新規参入する際にはこの委員会やその下部機関との調整が重要になります。