コソボ
コソボ ─日本・NGO活動の展開 ─ (1999年12月5日〜7日の現地調査)
コソボ−日本NGO・活動の展開− 99年7月、難民事業本部は、コソボにおいて、難民の帰還状況及び、その帰還を支援する日本の民間援助団体の活動を見てきました。欧米の援助団体の中に混じって、日本の援助団体が、小さいながらも工夫を凝らしてがんばっている姿が印象的でした。帰還した人たちにとっても、また支援する国連機関や民間団体にとっても、直面する最大の問題は、迫りくる冬をどう乗り切るかということでした。越冬対策が、最優先課題となっていました。
私どもは、12月5日から7日にかけて再びコソボを訪れ、支援活動がどのように展開されているのかを見ることができました。結論を先に述べれば、越冬対策の最大の課題であったシェルター(雨風をしのげる程度に家屋を補修することや、仮の住居を設置すること)は、何とか目標を達することができた、そしてそのためには現地にいなければわからないような苦労と、関係者の努力と、そして幸運があったということです。以下にその内容について触れます。 1. 復興 州都プリシュティナは、4ヵ月強の間に、商店やレストランも一部復活し、交通も渋滞を起こすほどに、活気を取り戻していました。爆撃や地雷で壊された道路、橋はKFOR(コソボ平和維持部隊)によって応急の改修が施されていました。未だに壊れた家屋も見られますが、州都やペチなどの大きな町を見る限り復興が進んでいるのが見て取れました。前回も述べましたが、帰還民の中には財力のある人もいて、その人たちによって商業が真っ先に立ち上がったようです。 2.  屋根の修復 私どもは、農村部に入りました。大部分の人口は農村部にあり、支援の手を最も必要としています。ここでの最大の課題は、前述のとおりシェルターです。最初、国連は1家屋につき少なくとも1部屋を使用できるように、1部屋の屋根部分をカバーできるプラスチックシートを配っていました。そのうち、これでは問題があることがわかってきました。まず、コソボの人々は1家族あたりの数が多いので、1部屋では不十分です。また、破壊された家屋には、シートをかけられる程度に壁などが残っているものと、全壊してカバーがかけられないものとがあります。シートは、前者には使えても、後者には役立ちません。それに、家屋が全壊した家族は、家がある家族の世話にならなければ、寒い冬を越すことは不可能です。 そこで、修復可能な家屋については、1部屋用のシート配布ではなく、建物全体に屋根を葺くことになりました。この新たな方針に沿って日本を含む各国の支援団体が、屋根用の資材を搬入し、農家に配布していました。屋根付け工事は、住民自身が行っています。まだ作業は続いていましたが、訪れた村落では大部分の家屋は工事が終了していました。私どもがペチに入ったその夜、コソボ全域にこの冬初めての大雪が降りました。例年11月から降り出しますから、今年は冬の到来が1ヵ月遅れたことになります。屋根付け工事は、10月頃から本格化したため、降雪が遅れたことは、大変幸運なことでした。なお、屋根付けについては、国連の暫定統治機構であるUNMIKも行っています。その資金は、日本政府からUNMIKへ提供されたもので、資材の配布は日本の民間団体が行っています。 3. 仮設住宅の建設 他方、全壊した家屋については、新築した対応策がなかったため、春を待たざるを得ないと見られていました。しかし、日本の国会議員が現地を視察して政府に進言したこともあって、神戸の仮設住宅が日本政府から提供されることになりました。501戸分の資材は9月末に無事到着し、私どもが訪れたときには、日本の2つの民間団体によって、基礎工事、下水道工事、組立工事、配電工事がほぼ終わり、帰還民の家族の入居が始まっていました。仮設とはいえ、他の国の団体が設置したものに比べて、日本のものはしっかりしていますが、本格的な土木工事も必要です。それを日本の支援団体のわずかな要員と、地元の施工会社や現地住民(多くは実際に入居する人たち)が力を合わせて、ほぼ2ヵ月間で実施したわけです。部品の欠損や、規格の不一致等の問題もあったそうですし、設置場所もニーズに沿って分散していて、限られた時間の中で完了するために、現地ではたいへんな苦労があったようです。冬の遅れがここでも幸いしました。なお、コソボの人たちは、家の中に土足で入らない風習があるようです。畳敷きの仮設住宅に違和感はない様子で、家の上がり口のところに脱いだ靴がきちんと並べられていました。 4. 弱者救済のための支援 前回、日本の支援団体は空爆終了後かなり早い時期にコソボ入りを果たしたと述べましたが、これは、現地のニーズを早急に把握し、プロジェクトを早期に立案し、他の団体に先駆けて実施する必要があるからです。そうしないと実施対象を、他団体にとられてしまします。ただし、拙速は禁物で、慎重さも求められます。そこがなかなか難しいのですが、ニーズ調査の段階で特に忘れてならないのは、社会的弱者のニーズです。彼らは往々にして目立たないので要注意です。特に、破壊の激しい西部地域で、日本の支援団体は、これらの人たちを対象に、際立った活動を展開しています。 まず、デチャニでは、破壊された6診療所の改修がほぼ終了し、また、総合診療所1ヵ所は、交通の便のよいところに新築(本年中に完成予定)することが決定されました。学校も破壊を免れなかったため、6校の改修が日本の団体により進められています。そのうちの、前回私どもが訪れた小学校は、一部使用可能になったため、2部制で授業が行われており、子供たちの元気な顔を見ることができました。 また、ペチ郊外のバラン村では、診療所が立派に完成し、診療が行われていました。日本の2団体が、それぞれ改修と医療活動支援を分担した、共同プロジェクトです。さらに、ペチ市内では、母子家庭を収容するセンターが開設されていました。これは、日本の団体が、市内にあった古いホテルを改修したもので、チェコの民間団体が運用にあたっており、いわば国際共同プロジェクトです。 5. コソボが教えたこと コソボで、日本の民間援助団体は多くの新しいことを学びました。自己資金に基づく事業に加えて、日本や諸外国の民間団体との共同事業、政府の補助金に基づく、UNMIKとの共同事業など、多様な協力形態がありました。また、事業の実施を通じて得たプロフェッショナリズムの向上や、欧米の大型民間団体との競争と協力、国連や日本政府との連絡・調整で得たノウハウは、今後の活動に大いに役立つでしょう。そして、日本のNGOを大きく育てていくことになるでしょう。 さて、コソボの本格的な復興は、雪がなくなる春以降になります。今までのところは、マイナス10度以下にもなる冬を乗り切る体制が整ったという状況です。コソボは、一見普通の社会に戻ったように見えますが、公的セクター、民間セクター共に、その管理、運営に当たってきたセルビア系の人たちがいなくなってしまいました。頻発する停電が、管理者を失った社会の悲哀を象徴しているようにも感じられます。人材の育成が大きな課題となるでしょう。これは、緊急人道支援の次に来る開発の問題ですが、コソボの人たちと国際社会は、雪解けが始まる春にはこの開発の問題に直面することになります。
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