ネパールのブータン難民とチベット難民
(2000年9月11日〜14日の現地調査)
ネパールはヒマラヤ登山で私たちにとっても身近な山岳国です。この国には、ブータンとチベットから逃れてきた難民が滞在しており、緒方国連難民高等弁務官が今年5月に訪れています。難民事業本部は同弁務官事務所(UNHCR)のご協力を得て、9月11日から14日まで難民の滞在状況を調査しました。
1. ブータン難民
80年代末、ブータン政府はチベット系ブータン文化に基づく純化政策を推進しました。そのため、それまでにブータンに移り住んでいたネパール系住民が、90年代初頭に難民となってネパールの南東部に流入しました。1992年ネパール政府とUNHCRは、ネパール南東部のインドとの国境の近くに、7ヵ所の難民キャンプを設営し、現在約10万人の難民を支援しています。最近は、難民の流入はわずかです。
キャンプ内の住居、学校等の施設は全て竹製の暫定的なものですが、良く整備されています。世界食糧計画(WFP)が食糧を供給し、国際的に活躍するNGO6団体が生活面での支援を行っています。難民自身も4つの委員会を組織し、統計の管理、配給、弱者支援、施設の修復に参加しています。難民婦人委員会は、洋服仕立て、サリー布織り、ゾンカ語(ブータンの国語)教室、チョークや椅子用マットの作成を行い、BRAVVE(暴力被害者を助けるブータン難民の会)は、裁縫、刺繍、竹細工、タイプの実習を行っています。キャンプの運営については、青少年のための教材の不足、キャンプ内に高等教育の施設が存在しないこと等の問題はありますが、難民はほぼ満足している様子でした。
他方、ブータンとネパールの間で、難民のブータンへの帰還をめぐる政府間交渉が行われていますが、妥結の目途はたっていません。難民は、キャンプで政府間合意をただ待つ他に術はなく、帰還の見通しがたたないことについて焦燥感を強めています。時間が経過する程この気持ちは強くなるでしょうから、これからは、心理カウンセリングにより心の安定を図ることも必要になるでしょう。また、ブータンへの帰還が実現する場合、難民は実社会に編入されますが、その際職業上の知識や技術が必要となります。現在キャンプでの実習はわずかですから、今後は帰還後のことも見据えて、職業訓練を強化することも課題になります。
難民キャンプの存在は周辺地域に様々な影響をもたらします。たき木採取による森林資源の減少、米価等の物価の上昇、難民によって就労機会を奪われるのではないかとの地域住民の不安感は、地域に緊張をもたらします。UNHCRはこれを緩和するために、植林、道路整備、診療所の建設、カレッジ図書館の整備等の事業を94年以来展開しています。この事業は、難民と地域住民との関係改善に大きく貢献していますが、UNHCRの事業計画は2001年までです。この分野のニーズは大きいので、日本のNGOがこの分野に進出すれば大いに歓迎されるでしょう。既に、日本のAMDAが、難民と地域住民の双方に対し医療活動を行っており、現地で高く評価されています。
2. チベット難民
1958年、チベット住民は中国政府による社会主義化政策に反対して反乱を起こしました。その結果、ダライ・ラマがインドに亡命した他、約8万人がインド、ブータン、ネパールに逃れました。ネパールでは、1961年に最初のチベット難民定住センターがカトマンズに建設されました。現在では、15ヵ所の定住センターがあり、センターの内外で、約2万人の難民が生活しています。なお、1989年以降に流入する難民はネパールでの定住を認められず、インド等第三国に移送されます。
UNHCRは1989年、カトマンズにチベット難民レセプションセンターを設置し、チベット難民福祉協会と共同で、難民の収容、凍傷等の治療と第三国への移送にあたっています。このセンターには、常時200人、年間延べ2,500人が滞在しています。センターの建物は、1998年に新築されました。
私たちはカトマンズ市内のジャワラケル難民定住センターを訪問しました。チベット難民は、ブータン難民のようにキャンプに収容されている訳ではなく、ネパール国内のどこでも定住することを認められています。従って、定住センターは閉鎖的なものではありません。センターの中には、チベット絨毯の織物工場、住居、学校、保育所、老人ホーム等の施設があります。絨毯は主に欧米諸国に輸出され、ネパールの貿易にも貢献しています。収益金は労賃に使われる他に、定住センターの整備、運営等の公共目的に活用されています。難民の代表者たちは、日本の人々に連帯を訴えるとともに、絨毯の販路を日本にも広げたいと述べていました。今後、定住センター内の人口増加への対策や、職種を多様化して雇用増加を図ること等が課題となります。