バルカン情勢 ― マケドニア情勢を中心に ―
(2001年6月14日の講演)
難民事業本部は、世界の難民発生地域の政治情勢と難民状況についての最新情報を提供するためパリナック・ジャパンフォーラムの協力を得て、1998年から「難民情勢講演会」を開催しています。第11回目の今回は、外務省の担当官を講師として、「バルカン情勢−マケドニア情勢を中心に−」の講演会を行いましたので、概要を紹介します。
●講演要旨
1. マケドニア情勢
(1)マケドニアにおけるアルバニア系過激派の動き
2001年2月マケドニア北部のコソヴォとの国境地域の村で、アルバニア系武装集団である民族解放軍が武装蜂起し、マケドニアの治安部隊と衝突した。同年3月には人口6万のテトヴォに紛争が拡大したが、戦闘拡大と小康状態を繰り返しながら現在に至っている。
(2)紛争の背景及び現状
マケドニアは1991年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国から独立した。アレキサンダー大王時代のマケドニア人とは違い現在のマケドニア人はスラブ人であるが、マケドニア地域はスラブ人の他アルバニア人、トルコ人、ギリシア人、ブルガリア人等がおり、元々民族が混在していた地域である。
露土(ロシア・トルコ)戦争の結果締結された1878年のサンステファノ条約により成立したブルガリア王国がマケドニアを領有することになり、その時から現在問題となっているマケドニア北西部(現在アルバニア人が多く存在)がマケドニアに含まれることとなり、アルバニア人居住区が複数の国に分かれるきっかけとなった。現在の紛争は、このような民族対立を背景に、1997年アルバニアでネズミ講会社が倒産したことに端を発する国民の反政府暴動で群衆が武器庫を襲撃し、多数の小火器がコソヴォ、セルビア南部、及びマケドニアのアルバニア系住民の手に流れたこと、1998年のコソヴォ紛争後、コソヴォ解放軍の残党の一部がマケドニア・セルビア南部に移動し、アルバニア系の武装蜂起に加担していると考えられること及びマケドニアの国内の経済問題等が大きく影響しているものと考えられる。
(3)マケドニア政府の対応
マケドニア政府は国際社会の意見を採り入れ、武力によらず、政治的プロセスで解決しようと努力し、マケドニア・アルバニア系野党も含めた挙国一致内閣を成立させた。
(4)今後の見通し
マケドニアへのNATO軍の派遣、KFOR(国際安全保障部隊)のマンデートのマケドニアへの拡大、あるいは国連PKOの再派遣(1993年国連はマケドニアに国連予防展開部隊を派遣したが、1999年2月に中国が同部隊のマンデート延長に拒否権を行使したため同部隊は撤退した。)等の国際プレゼンスを確保し、アルバニア系過激派の活動を抑える可能性が考えられる。