コソボを調査して
(1999年7月22日〜24日の現地調査)
99年の国際情勢は、目まぐるしいものとなりました。コソボでは難民が、既に前年からアルバニアに流出していましたが、本年に入り、ユーゴ軍とコソボ解放軍の間の衝突が激化し、3月にはNATO軍の空爆が行われました。その後、トルコ地震、東チモールでの騒擾事件と避難民の流出、台湾地震と、大きな事件や災害が続きましたが、その過程で民間援助団体の活動が注目をあびました。
難民事業本部は、もともとインドシナ難民の日本での定住を促進するために、民間団体であるアジア福祉教育財団内に設置された部門ですが、更に政府によって、世界の難民問題についての調査も委託されていることから、コソボ難民と、民間援助団体による難民支援活動を調査するため、ミッションを派遣することになりました。当本部は、アルバニアとマケドニアにあった難民キャンプに、6月半ばにミッションを派遣する計画を立てました。しかし、6月10日NATO軍が空爆を停止した直後から難民の帰還が始まっため、派遣場所をアルバニア、マケドニアからコソボ域内に変更し、7月22日から24日まで現地入りしました。
一行は、外務省難民支援室から1名、当本部から2名の計3名で、現地に展開する日本の援助団体の方々のサポートを得て、コソボの州都プリシュティナ、ミトロビッツァ、ペチとその近郊、デチャニ、ユーニックを訪れました。その主要点をかいつまんで述べたいと思います。なお、このミッションは、コソボ調査後、セルビア共和国側に入り、コソボから逃れてきたセルビア系避難民の状況も調査しました。
1. コソボ難民の特徴
戦乱の中で肉親を失い、命からがら脱出した点ではコソボ難民も他の難民と何ら変わりもありません。ただし、舟板一枚に命を託したかつてのベトナム難民や、アフリカ地域の難民の場合は、何の財産も持たず、大変悲惨な状態で脱走しましたが、これに比べ、コソボ難民の中には、トラクターを含め一定の財産を携行することができた人々がいます。民家は煉瓦づくりの二階建てのしっかりとした建物です。今回、破壊された建物の多くは、屋根は焼け落ちているものの、壁はしぶとく残っていました。コソボの戦乱状態は比較的に短期間で終結したことも幸いし、建物のような若干の財産が残り、難民の早期帰還を促したのかも知れません。コソボに帰還した人々には、自分たちでできる場合は自力で復興したいとの意気込みが感じられたことは特筆すべきでしょう。自力で家屋の修復を始める人もいました。マザー・テレサ・ソサエティーと呼ばれる現地の互助組織も存在します。
ただし、そうは言っても難問は山積みしています。大多数のアルバニア系と、少数派のセルビア系、ロマ系の住民間の軋轢が残っています。また、人的、物的損失はアルバニアとの国境地帯(ペチからジャコビッツァ、プリズレンに至る西部地域)では特に顕著です。学校、病院等の公共施設は修復の必要があり、通信、金融システムを含め公共サービスに従事する技術者が不足しています。その他、地雷の除去、離散家族の捜索、トラウマを含む治療、教師や医療従事者等への給与の支払い等の問題があります。農村では戦乱のために収穫がほとんどできず、来年春に蒔く種はどう調達したらよいかも問題です。都市部では帰還民の多くが失業状態でした。しかし現地では、これら一連の課題にじっくり取り組んでいる余裕がまだありません。何故かと言うと、11月には厳寒の冬となり、如何にこの冬を越えるかが目前の大きな問題となっているからです。壁が残った建物であっても適切な覆いをしないと、降雪と寒冷を凌げないばかりか、翌春には壁がボロボロになって使用不可能になるそうです。コソボを暫定統治する国連機関は、この越冬対策のほか、人道支援、帰還者の移送、治安の確保と警察組織の確立、電力、銀行、郵便通信システムの再構築等の当面の課題に追われ、その他の復興策はこれから考えるという状態でした。国連関係者の1人は、復興は住民の自助努力に頼ざるを得ない分野もあると述べていました。
2. 日本の援助団体の活躍ぶり
コソボでは、世界中から民間の援助団体が集まり、活躍しています。団体の規模は大小様々ですが、人道援助を担当する国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は現地展開に当たって、大手の民間団体と協力関係を構築し、コソボを7つの地域に分割した上で、物資配給、医療、給水・衛生、シェルター(テント等)の分野をこれらの団体に分担させました。これらの団体はボランティア団体とはいえ、世界規模で活動を展開している大型のもので、豊富な資金と専門家を擁し、大量の援助物資を自前で用意できます。日本には、これに匹敵する規模の民間団体は存在しないでしょう。果たしてコソボで、日本の民間団体が活躍の場を見いだすことができるか、これが私共の調査事項の一つでした。
現地には、日本から9団体が進出しています。結論から申し上げると、小団体であるが故の悩みはかなりのものでした。しかし、それにもかかわらず、各団体とも工夫をして、それぞれの良さを発揮していると言えます。工夫の仕方はそれぞれ異なりますが、あえて3点に整理してみました。
第一に、要員展開とニーズ調査を早期に行ったこと。ある意味では援助は早いもの勝ちの側面があります。他方、危険な地域に無謀に入っていくことはできません。欧米の団体の多くは、空爆終了後、国際平和維持部隊、国連機関の第1陣と共に現地入りしました。日本の団体も、この時アルバニア等で活動中であったり、大がかりな難民キャンプを設営する計画があったため、そこにいた要員を急遽コソボにシフトすることができ、幸いに遅れを取ることはなかったようです。
第二に、他の援助団体との協力関係を構築したこと。早い時点で現地入りできたとしても、やはり実績のある大手の団体に仕事が行きがちです。日本の団体に出番はあるでしょうか。今回現地を見た結果、大手の団体はそれぞれ国連からかなり大きな地域を任されていますが、広すぎて援助の手が隅々にまでは行き届いていません。広く網を掛けたが網の目の部分が抜け落ちているような感じです。日本の団体のいくつかは、これら大手の団体の了承を得て、彼らの手が回らないところを一部分担していました。これには高い交渉能力が必要ですが、小さいが故に小回りの利く利点を活かしているとも言えます。また、日本の団体が複数で、学校、病院の修復等の共同プロジェクトを実施しています。
第三に、専門性を発揮していること。支援物資や募金を国内で集め、被災地等に送る場合や、人海戦術が有効な場合には、専門家である必要はありません。しかし、コソボでは多数の団体がしのぎを削っており、皆援助のプロです。また前述のとおり、大手の団体と交渉してその仕事を一部分担するためには、こちらの組織を売り込み、相手の信頼を勝ち得る必要があるので、特定分野に特化していることが決め手になります。コソボに展開中の日本の団体は、それぞれ特徴を活かし、例えば、医療、土木、教育とカウンセリング、生活必需品の支給や地雷除去等、それぞれ強い分野で活動中です。
3. コソボで学んだことは何か
コソボでは、日本から赴いた団体も、欧米の諸団体から信頼の置ける同僚として認知されつつあります。また、今まで単独で行動することの多かった日本の団体同士が、協力して事業を実施するのも初めてのことです。日本の援助団体は、工夫を重ねて活動の場所を確保しており、この経験は、今後の活動に新たな方向性と飛躍を与えるものとなるでしょう。
日本の援助団体が、これから大きな団体に育っていくことを心から期待しますが、他方、人道援助の分野では、大きいことが必ずしも良いとは限らず、小規模な団体にも、手作りのプロジェクトをキメ細かく実施できる利点があります。ただし、小さいなりのハンディキャップが、現場では大きな制約要因になっているわけで、初動資金の確保、専門家の育成、各種機関・団体との連携強化等が求められています。最近、日本政府は、コソボ難民の救援活動にあたる日本の援助団体に対し、補助金を増額し、かつその支出を弾力化しましたし、官民が協力して仮設住宅の設置を手がけています。政府を含めて、これまでの経験を活かす努力が行われています。
なお、私共は、冒頭に述べたように、その後セルビア共和国に赴き、コソボから逃れたセルビア系の避難民が収容されている施設を訪問しました。難民、避難民に対する人道支援は、民族の相違を越えて公平に行うことが常識とされていますが、世界のいたる所に進出している欧米の援助団体が、セルビアにはおりませんでした。空爆による欧米諸国とセルビアとの間の心理的なシコリが原因だと思われますが、残念なことです。その中で、日本のいくつかの団体が孤立無援の活動を行っていました。この活動は現地の人々に大変感謝されていました。今回の調査が、現地に展開する日本の援助団体の協力によって初めて可能となりましたことを申し添えます。
