地域で活躍する難民定住者

「日本に来て良かった」吉田 源一(カンボジア)

インドシナ難民

私は、カンボジア国籍の吉田源一と言います。

1984 年にベトナムのホーチミンで生まれました。子供の頃は、両親と弟と 4人で暮らし、とても幸せ な家族でした。

しかし、私が 9歳の時に、両親が離婚し、 私と母と弟と 3人で母の実家で暮らすようになりました。

その時から、母は朝から晩まで働くようになり、 その代わりに私が弟の面倒をみるようになりました。

私たち兄弟は、午前中はベトナムの学校に行ってベト ナム語を学び、午後は中国語の学校に行って中国語を 学び、母と会えるのは夜の短い時間でしかありませんでした。

このような日々は何年間も続き、ある日、母 から日本に行きましょうと告げられ、日本?と聞いた時、何処の国なんだろう、日本語が全く話せないのに、 大丈夫なのかなととても不安でした。

でも、母は日本 はとてもいい国なので心配しなくても大丈夫だよ。と、 とても力強く話しました。

このようにして、私たちは 1998年の 6月におばの呼 び寄せで日本にやって来ました。

東京都品川区にある 国際救援センターに入り、6ヶ月間そこで生活し、日 本語を勉強しないといけないと日本に来る前から、母 に聞かされていました。

国際救援センターと聞いた時、 私は映画で観た難民センターと同じように、一人一台 のベットしか貰えず、狭いスペースで何十人も一緒に 暮らすような場所だと思い込んでいました。

正直に話すと国際救援センターに入るまで、すごく不安でした。 でも、品川にある国際救援センターに入ってみると、 私の考えていた難民センターと全く違っていました。

一家族一部屋で、毎日美味しい物を食べられて、何よりもセンター内の先生方や職員の方々がとても優しく、何から何まで、丁寧に教えていただきました。

その時、私が思ったのは日本ってなんて素晴しい国なん だろう、私が大人になったら、日本の社会に、貢献で きるようにして、少しでも、日本国に恩返しできるようにしたいと一生懸命に勉強することを決めました。

このように、国際救援センターでとても、とても、 楽しい 6ヶ月間が過ぎ、日本での生活がスタートしました。

中学生になると、勉強はもちろん、クラス委員になっ て、周りのクラスメイトをまとめ、部活ではサッカー 部に入部し、部長としてチームをまとめていました。

また、部内で私だけが市のブロック選抜に選ばれ、市代表として活躍していました。また、勉強の面でも、 いい高校に進学できるために、小学校の時よりも一生 懸命に勉強していました。

このようにして、私は 3年 間部活と勉強の両立をやり遂げることができました。 また、一生懸命に勉強した結果、地元で上位から二番 目の高校に進学することができました。

高校卒業後、日本は自動車大国なので車の知識や技 術を学んで就職しようと決心し、私が選んだのが神 奈川県横浜市にある日産横浜自動車大学です。

2年間、 自動車に関する知識や整備の技術について学び、卒業 後国家試験を受けて、受かれば二級自動車整備士という資格が取得できます。

手に職を付けるといっても、私は生まれたときから 一回も工具を持ったこともないし、車に関してもただ 格好いいと思うだけで、中身に関しては全然詳しくな かったです。

入学するまでは、かなり不安でしようがなかったです。何回も、何回も、諦めようとしていました。でも、これから生きていくためにも、少しでも 良い生活が送れるようにするためにもここで逃げては いけないと入学を決意しました。

入学当初はやはり私が思っていたとおりで、凄く大変でした。授業で簡単なネジの締め外しに対しても、 締める方向や緩める方向も分からず苦戦していました。

また、学科の授業でも、車の簡単な部品の名称も 分からず、最初は先生が何をしているのか全く理解できませんでした。

学科の授業も、技術の授業も、周りの友達に付いていけず、悔しくて何回も涙を流したことを今でも覚え ています。

そこで私が思ったのは、周りの友達に負けている理 由として、今まで工具を使ったことがないため工具の使い方に慣れていないのと、車に対しても全く詳しくないからです。

でも、私はそれらを言い訳の理由とし て捉えるのではなく、工具を使えないから周りの友達 よりも何十回何百回も使い方を練習し、学科の授業で は自分が理解するまで何回も何回も繰り返して勉強することを決めました。

そのときから、実技の授業で教えてくれた事以外、 自分で参考書を買ってノートにまとめたり、気が付いたら、2年間授業で書いたノート以外に私が自分でまとめたノートは 30冊もありました。

毎日学校から帰ったあとは必ず 2時間以上は自分で予習や復習をし、休日では、日中はバイトをし、バイト から帰ってきても必ず勉強していました。この繰り返 しをしているうちに、実技でも周りに負けないぐらい のスピードで出来るようになりました。

このような結果が出ると勉強したい気が湧いてきまして、いくら難しい授業に対しても苦痛とは一回も思いませんでした。

卒業試験では、学年で唯一私だけが学科と実技両方とも満点を取ることができました。そして、2年間の 総合点数でも、学年トップを取り、日産自動車社長賞 を受賞しました。

受賞したときは、本当に入学当初諦めないで頑張っ てきて良かったと改めて感じました。

卒業式は答辞を読み、母と日本に来て良かったと涙で語り合いました。

卒業後国家試験にも合格し、今では日産自動車の ディーラーで整備士として働いています。

日々覚える事がいっぱいでとても大変ですが、毎日が凄く充実し ています。

これからの私の目標は、日産自動車社内資格を全て 一発で合格することです。また、車に関する様々な知識や技術を覚え、腕の良い整備士になることです。

このように、今の私があるのは、何よりも今まで私の事をずっと心から支援してくださった「さぽうと 21」の皆様や先生方のお陰だと心から思っています。本当に感謝しています。

これからは、日本の社会に貢 献できるように、一生懸命に働きたいと思っています。

1998年12月国際救援センター退所 家族呼び寄せで来日  日産自動車ディーラー 整備士