地域で活躍する定住支援プログラム修了者

安全な生活を求めてー日本で家族とともに未来を描くーサドディン(パレスチナ)  
RHQ支援センター入所/定住支援プログラム受講:2024年4月~9月

条約難民とその家族

 

一度目の来日は留学生として、二度目は難民の家族として

2023年、私は妻と4人の子どもたちとともに、故郷パレスチナを離れ、日本へ避難してきました。私たち家族にとって二度目の来日です。一度目は約30年前、私は留学生でした。日本の大学院で修士・博士課程を過ごし、家族を呼び寄せ一緒に暮らしました。当時、ガザから日本に行く人はとても珍しく、まるで月へ行くような感覚でした。最先端の高層ビルばかりの未来都市を想像していましたが、最初に目にしたのは古い建物が立ち並ぶ風景で、ショックを受けました。ここは日本じゃないと思いました。でも、しばらくして、日本は先進的な文化や建物と伝統が共存している国なのだと気づくことができました。今回、他国ではなく日本へ避難することを決めたのは、やはり私たち家族にとって当時の日本での生活経験があったからです。そして、何より日本は世界中どの国よりも安全だからです。一方、パレスチナは2年近く続く戦争の影響で安全とは言えません。

これまでの仕事の経験と知識を生かせるベストな職場

現在、私は日本の建築設計事務所でフルタイムの仕事に就いています。パレスチナでは自分の建築事務所を構え、多くの建築物を設計し、大学でも教鞭をとっていました。日本でもこうして自分の経験と知識を生かせることは、とても幸運だと感じています。現在の職場は、幼稚園などの教育関連施設を中心にさまざまな建物を手掛けていて、私はプロジェクトごとに設計やコンサルティングを担当しています。これまでの専門性を生かしつつ、さらに日本で新しい技術や経験を得られることは大きな喜びです。
職場ではいつも日本語を使っています。日本語のビジネスメールは型があるので簡単ですが、電話応対は難しいと感じます。相手がやさしい日本語で話してくれれば、コミュニケーションに問題なく、私もよく話せます。でも、外国人に慣れていない方の場合は、大変です。それでも何とかしなければなりませんから、辞書を使ったり、電話の前に話したいことを整理したり、「ゆっくり話してください」とお願いしたりしながら、日々努力しています。

日本に住むならば日本語が必要

私は、日本で快適な生活を送りたければ日本語学習は必要で、基本的なルールだと思っています。私たち家族は、RHQ支援センターの定住支援プログラムで半年間学び、その後も日本語の勉強を続けてきました。年齢的に新しい単語や漢字を覚えるのは苦労しましたが、半年間懸命に取り組みました。最後には、先生にお願いして、少しレベルの高い内容も教えてもらいました。プログラム修了から3か月後には、私も子どもたちも日本語能力試験(JLPT) N3に合格することができました。今はN2の試験に向けて準備していて、子どもたちはこの冬、N1に挑戦する予定です。

心はいつも故郷パレスチナ・ガザを思う

パレスチナ・ガザの現状は本当に信じられません。ガザには、親せきや友人、大切な人がたくさんいます。私の一番下の子どもはまだ15歳ですが、これまでに5度の戦争を見てきました。電気も食べ物もない、仕事もない状況が多くの場所で起こっていて、毎日のように人がたくさん死んでいます。私がかつて教えた大学も、設計した建築物も破壊されてしまいました。ガザには高い教育を受けた人もたくさんいますが、働く場所もありません。この終わりなき殺戮と破壊を、誰も受け入れることはできません。たとえ私たちが日本で生活していても、私たちの心はいつもガザを思っています。

日本で家族とともに描く未来

パレスチナに戻るのは難しいでしょう。たとえ戻ったとしても、10年、15年は安全に暮らせる状況にはならないと思います。私は、安全な場所で暮らし、家族とともに将来を確かなものにしていくことが何より大事だと考えています。子どもたちもそれを望んでいます。
子どもたちには日本社会でいい仕事に就いてもらいたいと願っています。子どもたちは医師や薬剤師などを目指していて、国家資格の取得に向けて仕事と勉強を頑張っています。時間はかかると思いますが、頑張れば必ずできると信じています。
私自身について言えば、現在の仕事でさらに経験を積んでいきたいです。また、私は大学教員でもありましたから、日本でビルテクノロジーの研究を続け、いつか研究成果をもとにビジネスを始めたいと考えています。でも、まずは子どもたちの将来が何より大事です。

最後に日本の皆さんには、これまでのパレスチナへの様々な支援に感謝を伝えたいです。パレスチナの人々は日本にいいイメージを持っています。関心を持ち続けてくれてありがとうございます。

(インタビュー実施:2025年7月)